十人十色2014年8月

 

  黙々と立つ五丈原風薫る★呉  瑞香

 五丈原と言えば、三国志演義好きの人間にとっては忘れられない地名である。中国陝西省岐山県の南で、秦嶺山脈の北の麓にある。蜀漢の戦略家諸葛孔明が、魏の司馬懿、字は仲達と戦った場所である。孔明は不幸にも対陣中に病死した。孔明が死んだと聞いた仲達が蜀軍を攻めたところ、強烈な反撃を受け、孔明が死んだという話は謀略だと思って退却したのである。そして「死せる孔明生ける仲達を走らす」という諺を残した。五月の薫るように吹く風を受けながら五丈原に立って、三国志の時代の蜀漢と魏の戦を思い、特に孔明と仲達の死闘のことを考えているのである。壮大な歴史に思いを馳せつつ、五丈原に黙々と立つ、瑞香さんの姿が眼前に浮んで来る。ロマンのある重厚な句である。

 

  みかん花咲く峡住に一世紀★山口 秀子

 この句の作者山口秀子さんは、百歳になられた。しかも健康でおられる。誠におめでたい。この句の示す通り蜜柑の花の咲く美しい谷の村に生まれ育ち、今日までまさに一世紀を過ごしたのである。故郷であり現在まで生活の場であるこの美しい土地への感謝の俳句であり、土地への挨拶の言葉である。とともに自らを祝っているのである。白い蜜柑の花が一面に咲き、村中に甘い香が広がっている。桃源郷のような、蜜柑郷というべき理想郷である。そのような里に百年住んでおられるとは、仙人の話のように楽しい。秀子さんがますますお元気で、どんどん俳句を作って下さることを祈っている。

 

  岩塩の透ける桃色花の冷え★清水 和子
 
 岩塩は無色透明なものが多いが、淡い黄、赤、紫、青などいろいろな色を持つことがある。これは塩の分子に、さまざまな他の元素や化合物が混じることによる。例えば鉄の元素が入ると黄色や赤色になる。岩塩の結晶中の塩の分子NaClのナトリウム(Na)が遊離して結晶中に混じることがある。そのような岩塩にエックス線を照射すると青色や紫色になる。この句の岩塩は鉄が混じっているので桃色に見えるのである。丁度桜の花の頃で急に冷え込んできた。花冷えである。桜の色が岩塩に溶け込んで、桃色を発したようで美しい。

 

  昭和の日柩へ入るる戦争史★佐藤 武代
  
 武代さんの御主人が昨年、今月は御父上が亡くなられた。その葬儀での光景であろう。御父上は第二次世界大戦の時には戦地に行かれ、苦労されたのであろうか。葬儀がたまたま昭和の日、昔の天長節に重なった。そのこともあり柩には戦争史を一冊入れたのである。生前御父上は戦争中のことを時々話されたのであろう。特に天長節、みどりの日には戦争のことに話が及ぶことが多かったのだと思う。その思い出もあり戦争史を柩に入れたのである。こうして御父上の戦時の御苦労を思いつつ、共に過ごした長い昭和時代のことを懐かしみつつ、別れを告げたのである。御主人と御父上お二人の御冥福をお祈り申し上げる。

  鍬の音外よりありて春障子★瑞田 隆子 
 
 春になり障子に射す光も明るくなった。その障子の外から、鍬の音が朗らかに響いてくる。春障子によって春の光が感じられ、鍬の音によってのどかな春らしい響が感じられる。春の光景が目と耳を用いて描かれているところが佳い。この句は障子を閉めた部屋の中にいて作ったものであると思う。その方が障子に当る光の明るさが、春だということをより一層示してくれるからである。春になった喜びが客観的に表現されているところが佳い。

 

  浮いて来いラベルのロンド続くうち★増田 昭女
  
 ラヴェルはフランスの作曲家である。十九世紀最後の頃から二十世紀前半のパリで活躍した。私はラヴェルの明るく楽しいボレロが好きである。ロンドは中世以来の舞曲で輪になって踊るとき唱われる。「浮いて来い」が浮いて来る時、ラヴェルのロンドの繰り返しの曲が響いていたのである。そのロンドが続いているうちに「浮いて来い」が水面に浮んで来ることを願っているところが洒落ている。「浮いて来い」がロンドと共に踊っているようである。童話のような明るさがあるし、ロンドもラヴェルであることにより、明るい派手な曲だということが感じられるところも佳い。

 

  双子の名色で見分ける春の服★森田 洋子  

 一卵性双生児なのである。顔も体つきも、何もかもそっくり。身内の人でもなかなか見分けられない。そこで色の違う服を着せて、どっちがどっちであることをはっきりさせようとしているのである。春の服であるところが温かい雰囲気を出している。すくすく育っている双子の元気のよい姿がよく描かれている。あまりにも似ている双子を着せる服の色で見分けようという工夫も、春らしく明るい楽しい雰囲気を生み出している。双子の赤ちゃんが健やかであることを、心から祈っている。

 

  寺町の鐘一斉に山法師★野中 紀郎  

 寺町、それは作者紀郎さんが住んでいる長崎の寺町であろう。 その寺町の幾つかの鐘が一斉に響いて時を告げている。その鐘の音にうながされて、山法師の花が一斉に咲き出したのであった。この句で「一斉」が、鐘が一斉にという意味と、一斉に山法師が咲くという両方に使われているところに技巧がある。もう一つ、山法師は季語であり当然花であるが、寺町の山法師と読んでくると、なんとなく山から法師が鐘の音とともに一斉に下りて来るような気持ちにもなる。その辺に滑稽な味があって面白い句であると思う。

 

  退きし社の定時のチャイム花は葉に★宮崎 昭彦 
 
 退社には勤めている会社から一日の仕事を終えて帰るという意味と、勤めていた会社をやめるという意味がある。この句の場合は後者であろう。定められた時間になるとチャイムが鳴る。懐かしい音だ。長年勤めていたときは、あのチャイムで昼休みをとったり、夕刻は退社したものだったと、思い出しているのである。桜の花はもう散って、今は葉の緑が美しい季節になった。花は勿論美しい。会社で活躍していた時代は花であった。しかし退社した今も、桜の葉のように勢いがあり輝くような日々である。新しい境地を開いてみようという意気込みが感じられる句である。「花は葉に」という季語がよく働いている。

 

  小さな手小さな花を母の日に★松本  茂  

 お孫さんの写生であろう。まだ小さい子で体も手も小さい。だから大きな花束では持てない。そこで母の日のカーネーションも小さいものを探して、それを母親にあげたのである。自然な素直な行動であるが、その中に小さい子らしい心からの母親への感謝の気持ちが<GAIJI no="03494"/>み出ている。この子も、その若いお母さんも、これからますます元気で幸せな日々を送って欲しいものである。そのような気持ちがよく表わされている明るい句である。