十人十色2015年02月

 
  小春日やカフェの壁紙パリの地図★森山ユリ子

 どこの街のカフェであろうか。国としても日本だけでなくアメリカなどでもよい。小春日のある所ならどこでもよい。アメリカでは、インディアン・サマーと呼ばれる。パリは一度訪ねた人であればきっともう一度行ってみたいと思うに違いない所である。コーフィーを飲みながら壁を見ると、パリの地図が貼ってあった。それを見ながら、ここがエッフェル塔、これがノートルダムと思い出を深めているのである。私は何と言ってもカルチェ・ラタンの一角、四十歳の時三ヶ月を過した所である。郊外も南のサクレーにある研究所へ通い、週末はノートルダム周辺をよく散歩した。ヨーロッパ好きなユリ子さんもパリに行ってみようと、小春日の一日を楽しんでいるのである。


  盆栽のさつきに一つ帰り花★内田  歩

 盆栽は日本で発達した。小さな鉢に木を育てる。それも松や欅など大きなものをミニチュア化して育てるのである。江戸や京都などに住み、狭い所で大自然の姿を楽しもうと工夫したのであろう。
 この句の盆栽にはさつきつつじが植えられている。そのさつきに一つ帰り花が咲いたのである。盆栽のこと帰り花まで咲かせようと丹精したように思われる。その努力に答えるように咲いた帰り花を、喜んで見ている歩さんの姿が目に浮んでくる。その帰り花も盆栽らしく一つ咲いているところが佳い。しみじみとした句である。


  白波の果てに富士あり七五三★奥村富美子

 海を越えて遥か遠くに富士山が見えているのである。千葉県の房総半島あたりからの光景であろう。私も小学生の頃、銚子の屏風ヶ浦からこのような富士を見たものであった。十一月の中旬、七五三の日、着飾った子供達が親や祖父母などに連れられてお宮参りをしている。そのお宮は海辺の岡の上にあり、海越しに富士山が見通せる所にある。七五三の頃はおだやかな小春日和が続く。青々と空がひろがり、海上には太陽が暖かく輝いている。その海には白波が立ち、その果てに富士が立っている。大きな景色と七五三の組合せが佳い。


  襤褸着て今宵田の神刈田越ゆ★居林まさを

 田の神送りの行事の写生であろうか。夕刻田の神が収穫の終った刈田を越えて山へ帰って行くのである。それを送る人々は今年も無事に稲刈りも果し、豊年であったという喜びに満ちている。平和な農村の光景である。この句は田の神が襤褸を着て去って行く姿に着目したところが佳い。伝説に従った田の神の質素な姿である。この田の神は村人に送られて山へ戻ると、山の神として山で働く人々や山を司ると考えられている。この句は、このような伝説に日常親しみを持っている作者の眼前に、本当に襤褸をまとった田の神が現れたように臨場感を持って描かれている所が佳い。


  冬眠の亀うごきだす護摩太鼓★金田ふじ江

 不動明王の前に護摩壇を設けて、護摩木を焚き、災難を除き幸福をもたらすように祈って、太鼓を叩いているのである。護摩が焚かれている堂の外に池がある。夏や秋にはこの池に沢山の亀が泳いだり、岩の上で甲羅干ししているのに、冬になると姿が見えなくなる。亀も冬眠に入ったのである。その亀が一、二匹動き出して石の上に登って日向ぼこりを始めた。きっと太鼓の音が響くので冬眠から目がさめて何事が起ったかと、起き出して来たのであろう。ユーモラスな楽しい光景である。


  小鳥呼び寄せ集めたり実紫★町田  博

 実紫は紫式部のことである。六月から七月にかけて花を咲かせ、秋には紫色で球形の美しい実を枝に沢山つける。庭の実紫についた実を食べようと、小鳥たちが次々に集まって来る。小鳥たちは食べると言うより、実紫の美しさに寄せ集められているのである。実紫がその美しさによって小鳥を寄せ集めたとこの句は言っている。しかも小鳥たち自身もまた美しい。この句は山村の庭や、道端の静かな美しい光景を佳く描いている。博さんは九十二歳で、お体に不自由さを持っておられても、常に前向きに作句しておられる。このような山村賛歌をいつまでも作り続けていただきたい。


  蒼穹や魔の山に住む冬鴉★宮川 陽子

 十年以上に亘って私は、東洋特に日本、中国、韓国と、ギリシャ以来の西欧の文化における、詩歌、絵画等の比較を行ってきた。その間面白いと思ったことの一つが山に対する態度の違いである。日本では古代から例えば富士山を「神さびて高く尊し」と赤人が歌っているし、中国でも山を崇高なものとしてきた。一方西欧では魔の住処と考え、山をサブライム(崇高な)と考えるに到ったのは十八世紀のワーズワース達を待たなければならなかった。二十世紀でもトーマス・マンはその名作を「魔の山」とした。この句にはそのような西欧風の雰囲気があって面白い。冬鴉も「魔の山」の小悪魔に思えて来る。しかし蒼穹の美しさが救いである。


  リハビリに程よき坂や草紅葉★濱田 艶女

 艶女さんは入院生活を送っておられたが、回復された。現在はリハビリに努力をしておられる。先ず歩くことの訓練である。そのリハビリに丁度よい坂があり、それを登ったり降ったりして、足を鍛えることから始めたのである。その坂の草がもう紅葉になっていることを見付けて、句心が動きこの句が出来たのである。リハビリは体のみのためでなく、心のためにもよい。自然の移り変りを自分の目で確かめ、その美しさを描くことは、心の健康に大いに役立つ。リハビリを楽しみ明日への希望を抱いている作者の姿が佳く描かれている。


  街灯りあの窓のファドこがらしに★鷲澤ひろし

 ファドと言えばポルトガルである。リスボンに起った民衆歌謡で、どこか哀調がある。夕暮になり街灯が点り始めた。ファドが聞えて来る。どこからだろうかと見上げると、窓の一つが点灯されていて、そこからギターの音を伴ってファドが聞えて来た。愛を詠う哀愁が木枯しに乗って流れていたのである。木枯しの吹く頃、枯葉が舞う頃、哀愁を感じるのは洋の東西を問わない。この句で木枯しの中に響く哀調あるファドが佳い。どこか異国的雰囲気がある句である。


  白熊を追ひオーロラに包まるる★早川恵美子

 北極近くへオーロラを見に行った時の旅吟である。白熊がいたので、それを追うように歩いて行くと大空に見事なオーロラが現れたのである。一面の氷の白と白熊の白の上に輝くオーロラの色が素晴らしいものであったであろう。緑白色であったろうか、赤白色であったか。空のみでなくそれを見ている作者も、このオーロラに包まれるように感じたのである。荘厳な大景を描くのに、白熊の動きを配したところが巧みである。オーロラを見に行ってもなかなか見ることが出来ない。それを見る幸運に恵まれたこと、そしてこの佳句を得た幸運を祝したい。