十人十色2015年3月

 
  親鸞の齢いただく事始★大場 三楽 
 
 親鸞は言うまでもなく浄土真宗の開祖である。一一七三年に生まれ一二六二年八十九歳で亡くなった。偉大な足跡を残した僧であり、現代でも多くの人に尊敬されている。特に北陸では蓮如の影響もあり、浄土真宗が盛んであり、親鸞に親しむ人々が非常に多い。三楽さんもその一人である。十二月十三日に正月の準備を始める。これが事始である。三楽さんは親鸞の歳に近づき、事始をしながら自分は親鸞のおかげでこの歳まで元気であり、今後も親鸞の歳を越えて活躍できることに心から感謝しているのである。「親鸞の齢いただく」という表現にその感謝の気持ちがよく示されている。


 ひたひたとあうら冷たき開戦日★前  九疑  

 十二月八日は太平洋戦争の開戦日である。日本では大東亜戦争と呼んだ。中国との不幸な戦争も長引きA(アメリカ)、B(イギリス)、C(中国)、D(オランダ)包囲陣のしめつけが厳しくなり、それを突破しようと一九四一年(昭十六)十二月八日開戦したのであった。当時はまさにそのような危機がひたひたと押寄せて来るような日々であった。このような緊迫感を「ひたひたとあうら冷たき」と巧みに表現している。季節的にも足裏が冷たくなる頃である。今年は太平洋戦争の終結より七十年である。日本がアジア諸国へ兵を送り戦火にまき込んだ負の面と、ヴェトナム、カンボジア、ラオス、インドネシア、マレーシア、ミャンマーなどが百年から三百年にわたったヨーロッパ諸国の支配から独立する機会を与えたという正の面を、冷静に判断すべき時であると思う。


  猫じやらし枯れても風の猫じやらし★山口 秀子 
 
 猫じゃらしを見る度、猫じゃらしとはうまい名前をつけたものだと思う。その猫じゃらしが枯れてしまって少ししなやかさがなくなったようである。もう猫もじゃれないかもしれない。でも風が吹いてくると、猫じゃらしのあたりで風がじゃれているようである。枯れても風を遊ばせる力が残っていると見たところが面白い。秀子さんは九十歳を越しても猶このような若々しい楽しい句を作られる。ますますお元気で面白い句をお作り下さい。


  胡麻叩く音に子供ら踊り出す★斎川 玲奈  

 秋晴れの温かい日、庭に筵を広げて胡麻を叩いて種を取っている。日当りも良く胡麻を叩く人も種を集める人も気持ち良さそうに働いている。その周りに集っている子供たちも胡麻叩きが面白そうで、やってみたくてしょうがないようである。そのうちとうとう一人が胡麻叩きの音に合せて踊り出した。そうすると次々に他の子供たちも踊り出したのである。秋日が明るく照らす農家の庭の胡麻叩きの様子が、踊り出す子供たちの姿によって、一層楽しく描き出されている。


  酸茎買ふ京の町家の夕間暮★宮﨑温子  

 酸茎(すぐき)は、かぶらの一種である酸茎菜の漬物である。京都市の上賀茂や北白川そして一乗寺あたりの特産である。京都の町屋は奥深く広がっている。その表口で酸茎を買う頃もう夕暮の光になり、奥の方もうす暗くて見えなくなってきたのである。落着いたどことなく昔懐かしい京都の町屋の様子が浮び上ってくるところが、この句の佳さである。こういう句を見ると、俳句を作るにはぶらりとどこか好きな所へ行くことが第一だと思うのである。京都や奈良は観光名所は勿論、路地の辺りまでこのような句材が見つけられるところである。


  しばし待て除夜の珈琲寅彦忌★大辻泥雪  

 寅彦は珈琲、そして煙草が好きであった。この句の佳さは寅彦が好きだったものを思い浮べながらその忌を修している所にある。大晦日も夜、ちょっと待てよ、今日は誰かの忌だったがと考えたのである。蕪村忌は十二月二十五日だしと珈琲を口にしたとき、あ、そうだこの珈琲好きな寅彦が亡くなったのが大晦日だと思いついたのである。この句も「しばし待て」と考え始めたところから珈琲を口にして、「寅彦忌」だとつぶやくまでを語るように作ったところに味がある。このように忌の句を作るときは修すべき故人の特徴を句に反映すべきである。ただし付き過ぎは避けなければいけないが。


  猟銃に火のいろ映る炉端かな★西川 正則  

 猟好きな人が炉端で鉄砲の手入れをしているのである。明日は猟だと、山小屋か、宿の炉端で鉄砲の調子を整えていると、炉火が銃身に映るのであった。武士であれば刀を常に磨き手入れをしたであろう。炉端で炎の色を映しながら刀を目の前にかざしたであろう。猟人の気持ちも同じである。火の色の映る銃身の美しさと、それに見とれる猟銃の持主の姿が浮んでくる。写生の目がしっかり働いている句である。


  飴玉も数珠の袋に十夜婆★安西 佐和
  
 浄土宗の寺院では陰暦十月五日から十日間誦経し念仏を唱える。これが十夜であり、それに参加する老女が十夜婆である。十夜婆が持つ袋には大切に数珠が入れられている。これは当然であるが、この句の面白さは、その袋の中に飴玉が入れてあることを発見したところにある。十夜が修されている寺へ行き、そこで行われていることを自分の眼でしっかり観察した結果生まれた句である。臨場感がある句である。しかも朗らかな笑い、明るい諧謔のある句である。


  幾重にも虹立つ冬の関ヶ原★山田 和子  

 慶長五年(一六〇〇)九月十五日関ヶ原で天下分け目の戦が行われた。その跡に立つと何となく心をかき立てる雰囲気を感じる。旧暦の九月であるから陽暦であれば秋も終りに近い頃に戦が行われたのである。和子さんは冬に入った頃関ヶ原を訪ねたのであろう。従って季節的には関ヶ原の戦で両軍多くの死者を出し、西軍は敗れ、石田三成が京都で斬首された後の頃であろうか。訪ねた時偶然冬の虹が幾重にも立ったのである。いかにも死者たちを弔っているような光景である。歴史的大戦争の跡を鎮めているようにも思える。厳粛な気持ちのこもった句である。


  ミニチュアの猫の楽団降誕祭★杉  美春  

 小さな玩具の楽団が飾られている。しかもその団員は猫であり可愛い。その楽団が音楽を奏でている。それは降誕祭の日のことである。イエスの生誕を祝し猫の楽団がクリスマスの歌を奏でるとは、ほほ笑ましい楽しい光景である。生まれたばかりのイエスが、喜びの声を発しそうである。このミニチュアの楽団を飾ったのもまだ幼い子供のように思える。自分の持っている玩具を持ってきて飾ったのではないであろうか。