十人十色2015年4月


  ぽつぺんを吹きて昨日を遠くせり★松村 三冬  

 息を吹き込むとポコンポコンと鳴るぽっぺんは昔懐かしい玩具である。正月になると私もぽっぺんを思い出す。特に今でもこの玩具をよく売っている長崎を思い出す。この句の作者三冬さんもぽっぺんが好きなのである。正月の一日、ぽっぺんを吹いてみる。昨日も吹いたのにもうずっと昔のことであったような気がしたのである。ぽっぺんのポコンポコンと言うかすかな音が、遠くから聞えてくるようである。それが遥かに行ってしまった昨日から響いてくるようである。ぽっぺんの音から昨日がもうずっと遠くなったと思いを馳せたところが佳い。ぽっぺんの昔懐かしい音を見事に表現している。

 

  琅?の青きを窓にのつぺ汁★畔上 東川  

 琅?は青碧色の半透明な美しい石で、古来中国で装飾品として愛好された。転じて青々とした美しい竹を琅?と言う。のっぺい汁は新潟県の郷土料理で里芋や大根、人参、豆腐などを適当な大きさに切り、柔らかに煮る。そこへ片栗粉や葛粉を入れて仕上げる。東川さんは実に長い間書道に励み堂々たる書家になられた。俳句にも黙々と努力を続けておられる。その努力は尊い。何時間かを書道に熱中した後の夕食であろう。のっぺい汁を食べながら、窓の外の青竹の美しさに気付いたのである。のっぺい汁から心は故郷へ飛んだであろう。そこの琅?の美しかったことも思い出したに違いない。澄んだ気持ちが感じられる句である。


  のど飴のまだ口の中謡初★福田  稔  

 新年になった。心も朗らかに得意な謡曲を一つ謡ってみようという気になったのである。先ずは喉を滑らかにしようとのど飴をなめ始めた。その飴を完全になめ終っていないうちから謡い始めたのである。新春を喜ぶ気持ちと、それを祝う謡を少しでも早く謡いたいという気持ちが生き生きと伝わってくる句である。江戸時代の江戸城中では一月三日に謡初が行われた。それを松囃子といったそうである。その時観世太夫が「四海波」の小謡を謡ったという。稔さんも謡曲「高砂」の一節「四海波静かにて、国も治まる時つ風」という小謡が得意なのかもしれない。新年らしい朗らかな句である。


  冬耕の人声谺して没日★村山 和廣  

 冬の午後、山の麓の畑を何人かの人が耕し始めた。声のようなものが聞えると思って耳をそばだてると、その耕人たちの話し声の谺であった。もう周囲が暗くなり始め、西空に日が沈んでいった。きっと耕人たちは「もう日が沈むぞ、冬の日は短い」などと話し合っているのであろう。その耕人たちが鍬や鋤を置いて立っている姿も遠くに見えている。ミレーの絵画にでもありそうな静かな冬の夕暮の光景である。耕人たちそのものの光景を直接描かず、話声の谺に着目したところが面白い。


  寒鴉古城に聴きしバグパイプ★安藤小夜子  

 バグパイプ、バッグパイプともいう。皮袋に数本の音管を挿入した吹奏楽器である。楽人は袋に満たした空気を押しながら音管を鳴らす。口で吹くこともある。指で押えてメロディーを奏でる管と、演奏する間低音で鳴り続ける管がある。バグパイプはヨーロッパやインド、北アフリカ、アラビアなどにあるが、特にスコットランドが有名である。この句の古城はスコットランドもエディンバラの城ではないかと私は直感した。私がここを訪ねたのは二回、どちらも初夏であったが、バグパイプが人を集めていた。この句は寒鴉で冬の古城の自然を示し、この歴史のある雰囲気の中で奏でるバグパイプに焦点を合わせたところが佳い。


  買初めの手ぬぐひに跳ぶ兎かな★加藤 昌子  

 買初は楽しい。買うものは何でもよい。ちょっとした小物も買初であれば心が弾む。この句では手ぬぐいを買ったのである。その手ぬぐいを拡げて見たらば何と跳ぶ兎が描かれていたのである。兎の絵そのものもめでたいが、その兎が跳びはねているとは、一層縁起がよい。今年は正月から何かよい事が起りそうだと、嬉しい気持ちになったのである。跳ぶ兎の絵のある手ぬぐいを買ったところが買初めらしく明るく楽しい。


  針千本の目玉に合うてそぞろ寒★石川 宏子  

 針千本はハリフグとも呼ばれる。ふぐ提灯の材料に使われる魚で、体長は三十センチメートル程で、体全体が鋭い長いとげで覆われている。それが針千本と名づけられた由来である。沖縄ではアバサーと呼ばれ食用にされる。無毒ではあるが鋭い針で守られた魚を見ると気がひきしまる。秋もそろそろに深まり寒さを感じる頃、アバサーの目玉を見て、そぞろ寒を感じたのである。冬でも暖かい沖縄とはいえ、秋の末から冬に入る頃になると、夜などやはりそぞろ寒を感じることがある。それもアバサーに睨まれたら一層強く感じたようで面白い句になった。


  紺碧の佐渡の底より鰤起し★高安 春蘭  

 新潟、富山、石川など日本海<GAIJI no="02512"/>岸で十一月から一月にかけて、不意に大きく雷が鳴ることがある。漁師はこの雷が鰤を起こしてくれると喜ぶ。紺碧の海に囲まれた佐渡の島に鰤起しの雷が鳴ったのである。その雷は佐渡の海の底から鳴ったように響いた。海の底にいる鰤たちもこの雷では起きざるを得ないであろう。佐渡の鰤起しの烈しさを海の底よりと見たところに、この句の勢いがある。佐渡の荒海を彷彿と思い出させる力のある句である。


  雷鳴も加はりどんど火の柱★澤田 輝子  

 正月十四日の夜か十五日の朝とんどが行われる地方が多い。左義長ともいう。松飾りや注連飾りなどを燃やす。書初めも燃やすことがある。高く舞い上がると書道の力が上がると喜ぶ。そこで吉書揚とも呼ばれる。とんどの火は烈しい。大きな火柱が立つこともある。そのように盛んにとんどが行われているとき、空の一角が暗くなったと思っていると、雷が鳴り始めた。雷神もとんどの盛んなのを見て、自分も参加したいと思ったような雰囲気である。この句はそのようなとんどの勢いをよく描いている。力のある句である。


  雪折れの音しみとほる杣の里★奥村富美子  

 森の深い村の光景である。林業で生活する杣人たちの里がある。この一帯は雪の深い地であり、時々雪折れの音がする。その雪折れの音がしみとおるように響いていくと表現したところに、杣の里が山深い所にあるということ、そして静かな村落であることを、佳く描いている。平和な静かな杣の里のたたずまいが目に見えてくるようである。雪折れの音に焦点を合せたところが佳い。