十人十色2015年7月

  

乱世やと女?を恃みに龍天へ★岡西 宣江 

 中国古代の伝説上の三天子を三皇という。その後に五帝が出現することになる。三皇は伏犠、女?それと神農とする説と、天皇・地皇・人皇とするなどの諸説がある。神話時代の帝王と言ってよい。伏犠は人首蛇身であったという。その妹が女?でこれまた人首蛇身であった。女?は泥をこねて人を作ったといわれる。春になり龍が天へ昇って行った。それはもしかしたら伏犠だったかもしれない。「乱世だから天へ登るぞ」と伏犠が言いながら天へ昇る。そして妹の女?に「後を恃むぞ」と言い残したと想像したところが面白い。龍天にという季語から、現在の日本内外の困難を乱世だと憂い、女?を恃み、女性の力を今こそ恃めと願う心が見えてくるところが佳い。構想雄大な句である。   


耕運機より聞こえくるラップかな★内田  歩    

 ラップはラップ・ミュージックとも呼ばれる。本来ラップは軽くたたく、棒などでコツンとたたくという意味の動詞であり、軽くたたくことを意味する名詞でもある。そして俗語としておしゃべりとかあまい話を意味する。この句は広い畑を耕運機で耕している光景を詠んでいる。その耕運機を運転している農民が、ラップを歌っているのである。ラップはアフリカ系アメリカ人の口承文芸をもとに、社会を批評したり諷刺をする言葉が加えられた音楽で、一九七〇年の後半に盛んになった。その頃アメリカに住んでいた私にも懐かしい音楽である。この句はアメリカ西部の農村の風物詩として評価したい。   


清明に流る長江二胡の音★劉  海燕  

 清明は言うまでもなく中国で定められた二十四節気の一つであり、春分後十五日(太陽暦の四月五日か六日)に始まり、穀雨の前日までの約十五日間である。この頃すがすがしい東南の風が吹くのでこのように名付けられた。ただし現在は最初の日を清明と呼んでいる。この日、中国では先祖の墓に詣でる習慣があり、沖縄でも御清明として墓参りをする。中国大陸を滔々と長江が西から東へ流れている。清明の日天地は晴れ渡り、風は清らかに吹く。そこにどこからか二胡の音が聞えてくる。広大な中国大陸を流れる長江を詠った秀句である。   


鶯に西湖貫く蘇堤かな★呉  瑞香    

 西湖には蘇東坡の築いた約三キロメートルの蘇堤と、白楽天が作った白堤がある。蘇堤は西湖の北岸と南岸を結び、白堤は北岸と孤山という島を結んでいる。西湖とその周辺の風光は素晴らしい。この句の優れている点の一つは、蘇堤が西湖を貫いていることを描いたところにある。春夏秋冬どの季節でも蘇堤をそぞろ歩きすることは楽しいが、特に鶯の鳴く春が美しい。唐の杜牧の詩に「千里鶯啼いて 緑紅に映ず」とあるが、その鶯である。蘇堤の美しさを鶯で強調したところが佳い。蘇堤から蘇東坡という、詩文書画のすべての分野で優れた業績を残した天才を偲ばせるところも佳い。「蘇堤春暁」の人気は西湖十景のうち最高位である。   


早池峰も座敷わらしも笑ひけり★大辻 泥雪    

座敷童子は、岩手県、青森県、秋田県、宮城県など東北地方の伝説に登場する、悪戯好きな童子である。この伝説の中心は岩手であり、遠野の座敷童子が特に有名である。早池峰山は岩手県中部にある北上山地の最高峰である。座敷童子が家にいるとその家は栄え、消えると貧乏になると言い伝えられている。春になり霊山早池峰も笑い、その上座敷童子も笑ったとは、大変目出度い光景である。座敷童子のいる家は勿論のこと、その周辺の集落全体が栄えているのである。明るい楽しい句である。   


猫の鈴通る寺町月朧★森  宣子    

寺町の路地の一軒に可愛い猫が住んでいる。その猫がよく鳴る鈴をつけていて、路地を歩いていると鈴の音が響いてくるのである。外出から家へ戻ろうとこの路地まで来たところ、耳馴れたこの鈴の音が聞えてきた。ああ、あの猫も元気そうでよかったと思いながら、空を見ると月が朧に浮んでいたのである。平穏な寺町の春の夜の雰囲気が佳く描かれている。猫の姿と朧月の組合せも、春宵らしい光景である。


黄砂降る朝の屋台のカレーの香★斎川 玲奈    

上海とか北京そして天津というような外国の街を旅していて、朝の屋台をのぞき込み、時にはそこで軽く朝食を食べることは楽しい。台湾の街、ヴェトナムの街でも同じである。この句は、その屋台に黄砂が降るのであるから中国か、日本では博多や北九州など日本海沿いの街の光景かもしれない。それもカレーの香というところが具象的で現実感がある。私は外国でも国内でもカレーか麺類を選ぶことが多い。どこでもほぼ同じ味であり、よく煮てあるから食中毒になる可能性も低いからである。黄砂も量によるが春らしい風情があって楽しい。どことなくロマンティックな味のある句である。   

春駒や馬柵茫々と太平洋★渋谷マサ子    

この句の春駒はハルゴマと読まなければいけない。ハルコマと読むと新年の門の飾を意味する。馬の首を木で作ったものである。ハルゴマは春の馬、仔馬で春の季語である。この句は太平洋に面した高台にある広い牧場で、その馬柵の外には茫々と海が広がっているのである。仔馬は春日を浴びながら、太平洋の見える牧場を走ることが嬉しくてしょうがないのである。冬の長い北海道にやっと春が来たと喜んでいる様子が見えてくる。仔馬は幾度も馬柵に近づいたり離れたりして、太平洋を見ることを楽しんでいるのである。太平洋を背景に春駒を詠ったところが佳い。   


聖鐘や潮の香りの染玉子★山下 清美    

復活祭の日の港街の光景である。復活祭には彩色した卵を贈る習慣がある。教会から鐘の音が響いてくる。復活祭の礼拝が終り、手に染玉子を持ちながら港街を歩いていると、その玉子から潮の香がしてきたのである。聖鐘を聞きながら染玉子を見たり手にしたりしながら、復活祭を祝っている気持ちがよく描かれている。しかも海の近くにいることが潮の香で表わされている。長崎の光景であろうが、どことなく異国情緒を感じさせるところが佳い。   

新発意の三唱一礼風光る★井上 淳子    

新発意は新しく仏門に入った人のことである。シンポチとかシボチとも読む。初発心ということもある。特に浄土真宗では得度した若い男子を新発意という。得度とは言うまでもなく剃髪して仏門に入ることを意味する。この句は若い人が出家した様子を詠んでいるものと解釈したい。それは三唱一礼を元気よくやっているようであるし、風光るという季語が持つ力による。春になり日の光も明るく強くなり、風も輝きまぶしくなる。若くして発心し出家した人のきびきびした姿が風光るで強調されているのである。新発意の強い意志が感じられる句である。