十人十色2015年11月

  

敗戦忌股肱の臣の真の闇★荒木 盛雄

第二次世界大戦敗戦前に、我々は股肱の臣だと言ったものである。股肱とは手足となって働く、君主がたよりとする家臣を意味する。特に軍人であったり、官僚であった人々にその思いが強かった。盛雄さんも若い時代、軍人として日本のために苦労を重ねられたのである。八月十五日の敗戦日、若い時代股肱の一人として身を捧げた日々の事を回想しているのである。七十年前の八月十五日を転機に、全く違う人生を歩き始め今日に至った人生を考えると、深い闇に覆われたような思いになるのである。敗戦に直面し人生の目標を完全に変えざるを得なかった悲しみと、その一面現在の平和を喜ぶ自分。その間にある深い闇という思いが厳しく詠われている。


端居子の伯牙の琴を聴く風情★畔上 東川

中国の春秋時代、伯牙という琴の名人がいた。その琴の音を真に理解してくれた友人がいた。その人の名は鍾子期という。その親友鍾子期が死んだとき伯牙は心から悲しみ、琴の糸を切って二度と琴を弾こうとしなかったと伝えられている。これが伯牙絶絃と言う話であり、「呂氏春秋」に記されている。この句は端居をしながら親友の琴を聴いている姿に鍾子期のような風情があり、琴を弾いている人が伯牙のように思えるのである。この琴の音を愛する端居子が鍾子期と違って、これからも長く伯牙の琴を楽しみ、断琴の悲しみを迎えることが無い事を祈っている。


目白鳴く引佐の森の子守歌★あさだ麻実

引佐は静岡県の西部で今は浜松市に属している。その北方にある井伊谷は彦根藩の井伊氏の発祥地であり、また近くに奥山半僧坊として有名な方広寺がある。この引佐の地には美しい森が多い。その森に目白がよく鳴いている。その声を子守歌とみたところが、引佐の森の雰囲気を佳く表している。浜名湖にも近い遠州の自然、特に森の様子が目白の声でひき立てられている。ちなみに井伊谷から流れ出る井伊谷川は、これも浜松市の北区に合併した旧細江町を流れる都田川と合流し浜名湖に注ぐが、その辺りに万葉集(十四)に「遠江引佐細江の澪標」と詠われた澪標がある。そのようなことも思い浮ばせるところが佳い。


定位置に螺子納まりぬ星月夜★松村 三冬

ねじをきちんと嵌めこもうとしてもなかなか嵌らないことがある。やっと定位置にその螺子が納まってほっとしたのである。そして窓の外を見ると星が一面に輝いていた。その星もそれぞれ定位置に納まって静かに夜空を少しずつ正確に運行して行く。それを見て星も螺子のように運行しているのだと思ったのである。螺子から星月夜へ飛躍していく発想が面白い。


みかしほの播磨の城の月見かな★?田 栄一

みか潮は播磨にかかる枕詞とされている。しかし広辞苑によれば(一説に、「みか」は「み(御)いか(厳)」の意。また三日潮で陰暦の月の一日と一五日の大潮から三日目の潮とする)流れの速い潮。また播磨にかかる枕詞ともと書かれているので定説ではないのかも知れない。でも何となく播磨灘の速い潮が目に浮んでくる言葉である。その播磨の城の月見である。この句から力強い盛んな月見の光景が目に見えてくる。この城は勿論古代に播磨の国府があった姫路にある姫路城、別名白鷺城である。それを「みかしほの播磨の城」と高々と詠い上げた所にこの句の佳さがある。姿美しき句である。


母卒寿線香花火でもするか★合原美紀

美紀さんのお母さんは九十歳でお元気、まことにお目出たい。その九十歳のお母さんを楽しますために線香花火をしようと言うところが面白い。九十歳を祝い喜ばすことには様々な手段があろう。芝居を見に行くとか、お茶の会をやるとかいろいろ考えられる。でも子供の頃大いに楽しんだ線香花火とか、正月であれば絵双六とかが一番気楽でよいし、思い出をさそうであろう。それをまた「線香花火でもするか」と口語調で呼び掛けるように表現した所が佳い。母への感謝をこめて自分自身も幼女に戻って振舞っているところが佳い。温かい雰囲気が実によく出ている。


夕焼の薄れゆく街ジャム・セッション★赤池 弘昭

夕焼が終っても夏の宵はまだ明るい。街には夕涼みの人が大勢出ている。そこでジャム・セッションが始まったのである。ジャム・セッションは、音楽家たちが集まってジャズや流行曲を即興で演奏をするのである。アメリカの大都市というより、郊外の街や地方の小都市で行われているのを私もよく見た。日本でも行われるのであろうか。夏の宵、市民たちが大いに楽しんでいる様子が見えてくる。明るい朗らかな句である。


虫売や戦の孤児と呟きぬ★枝松 洋子

街の片隅で貧しそうな人が虫を売っている。虫を買いながら話し掛けると、「自分は戦争孤児なんだ」と呟いたのである。この句には二つの解釈がある。一つは敗戦からまだあまりたってない頃の思い出を詠っているとみて解釈することである。そうするとこの虫売は少年とみるべきである。もう一つは現在の光景とする解釈である。そうすると今も虫売りのようなことをして生活を立てているが、戦争孤児として育ち、現在もそのため苦労していると呟いたのである。いずれにしても戦争によって人生をねじ曲げられ苦労している虫売への同情がこめられた句である。世界を絶対に平和にしなければならないという祈りのある句である。


九十は生き過ぎといふ風涼し★渡辺 隆治

一昔前は人生五十年と言われた。今は九十歳、百歳は珍しくなくなった。七十歳ももはや古稀とは言えなくなった。目出たいことである。でも何となく九十は生き過ぎとも感じることがあるのであろう。とは言っても風は涼しいのである。生きているのが楽しいのである。私は「高齢者に生きる喜びを与えよ。」そのため「元気のある人にはその人の力に応じた職を与えよ。」と言い続けている。私も今年九月には八十五歳になった。後二年半は幸い定職が二つあり、東京と浜松で働いている。このように職があると元気が出る。この句は生き過ぎと思いながらも風の涼しさを喜ぶ余裕を詠っているところが佳い。


奥能登の街に繰出す大切子★鹿野 尚

能登半島の北東部に奥能登丘陵がある。その辺には「あえのこと」という田の神を祀る農耕儀礼があったり、奥能登の各地には興味深い伝承行事が多く残されている。この大切子もその一つである。盆の頃に大きな切子灯籠を街へ繰出すのである。先祖の精霊を迎える気持ちを大切子を繰り出して表す街人の勢が感じられる。大都市では迎え火すら見られなくなった今日、このような伝統行事がこれからも続くことを望んでいる。