十人十色2016年2月

 

一葉の低き文机十三夜★小川 大助

樋口一葉は明治五年(一八七二)五月二日、東京都千代田区(現在)の一長屋で生れた。少女時代までは中流家庭であったが、父の死後母と妹をかかえ貧乏で苦労した。生涯に十二回引っ越しをし最後は本郷区丸山福山町(現在の西片一丁目)に住んだ。肺結核のため二十四歳と六ケ月で死去した。小説「たけくらべ」の舞台となった台東区竜泉に一葉記念館がある。この句の文机はこの記念館にあるのであろうか。その文机が低いのに驚き病身の一葉を思いやったのである。それも十三夜のこと。「十三夜」はペイソスに満ちた一葉の代表作の一つであり、そのことを思い出しながらこの句を作ったのである。文机を即物的に描きながら抒情性豊かな俳句である。しみじみとした味のある佳句である。
 

落葉ふみ一会の墓は貞心尼★古谷野 靜

貞心尼は寛政十年(一七九八)長岡藩の奉行組士奥村嘉七の次女として越後国長岡(現新潟県長岡市)に生れた。本名は「ます」であった。二十五歳で剃髪し貞心尼となった。三十歳の頃、良寛に会う努力をし歌と手毬を良寛に渡してもらった。それに良寛は返歌を送っている。そして天保二年一月六日良寛寂滅をみとったのである。貞心尼は「良寛道人遺稿」の出版に尽力したと言われている。貞心尼は明治五年(一八七二)に寂滅し墓は洞雲寺にある。この句は落葉を踏みながら貞心尼の墓に詣でた時に出来た句であろう。靜さんにとって始めて見た墓であり、もしかすると一期一会の縁かも知れないと感じたのである。貞心尼のひたすらな良寛への思いを感じさせるところが佳い。


唐辛子吊つて田端の路地住ひ★石毛 紀子

田端とは東京都北区南東部の地区である。JRの山手線と京浜東北線が分れる田端駅があり、昔から交通の要所であった。一昔前は織物や機械などの中小工場が多かった。田端はまた住宅地としても整っていて、明治から昭和の時代極めて多くの文人や芸術家が住んでいた。例えば小説家では芥川龍之介、菊池寛、久保田万太郎、野上弥生子、詩人では萩原朔太郎、室生犀星、歌人では太田水穂、香取秀真等々、岡倉天心や竹久夢二たちも住んでいた。そして山口青邨先生も若い日田端に住んでおられ「田端にゐたころ」という名随筆がある。そんな「文人村」であった田端の路地には今でも唐辛子を吊っているような風流人が住んでいるのである。田端らしい風景が佳く描かれている。


赤き糸つきたるままに針供養★矢野真緋子

針供養は関西や九州では十二月八日、関東や和歌山市加太にある淡島神社では二月八日に行われる。この日には針仕事を休み縫い針を供養する。豆腐やこんにゃくに針を刺して供養する地方が多い。紙に包んで淡島社へ納めることもある。十二月八日に行う針供養は冬の季語、二月八日であれば春の季語となるが、その違いにこだわることはない。針供養の楽しさを詠えばよい。この句は赤い糸をつけたままで供養された針を描いている。つい先程まで使っていた針で、赤い糸がそのままであるところが美しい。この針に愛着を持ちながら供養して行った人の姿も浮んでくる。


冬の蜂去り難かりし翁塚★高安 春蘭

俳句に親しむ人々にとっては、翁と言えば芭蕉のことと思うであろう。陰暦十月十二日は芭蕉忌であるが、時雨忌とか翁忌とも言う。この句の翁塚も芭蕉を祀った塚であろう。その塚に冬の蜂が去り難そうな様子で止っているのである。蜂とともに春蘭さんもその塚にしばし留まって、旅に死んだ芭蕉を偲んだのである。この蜂も芭蕉をしたっていつまでも翁塚にとまっているようである。小さな虫でも人間と同じような気持ちを持っているように感じられる句である。


田の神の去るや俄かに初霰★大辻泥雪

九月三十日とか十月と十一月の初丑の日などに、山へ帰る田の神を送る風習がある。山へ戻った神は山の神になると言われる。秋田の方ではこのような伝統が沢山残っているのであろう。田の神が山へ去ったと思っていると、俄かに初霰が降って来たところに臨場感がある。「俄かに初霰」と力強く言い切っていて、句全体が引き締まり格調が高くなったところが佳い。泥雪さんは九十三歳である。高齢ではあるが常々この句のように秋田の風物を若々しく詠い上げている。更なる御健吟を心から祈っている。

仕入帳と細き文字あり一葉忌★中村 光男

十一月二十三日は一葉忌である。東京都文京区の菊坂町にある一葉の旧居や台東区にある一葉記念館へ吟行して、一葉の家で使っていたと思われる仕入帳を見たのであろう。仕入帳と書いた細い筆文字は一葉が書いたのではないかと感じたのではなかろうか。仕入帳から、父の死後母と妹をかかえての貧窮生活を思い、その繊細な美しい字から、一葉の叙情的な小説を思い浮べたのである。「仕入帳と細き文字あり」と即物的に描いたのみで、一葉の文学がどうだったとか、生活が苦しかったとか一切述べず、「一葉忌」とだけ言って終ったところが佳い。俳句の短詩型の特徴を見事に生かしている。


道尋ね鬼柚子貰ふ遍路みち★榑林 匠子

四国の遍路か、或は西国三十三所の観音を回る巡礼か。もしかしたら秩父三十四ヶ所観音霊場の巡礼かもしれない。この句の面白さは遍路みちを歩いていて、道を尋ねたところ親切に道を教えてくれたのみでなく、大きな柚子をくれたところである。遍路道に沿った集落に住む人々の気持ちの温かさが見えてくる。遠方から来て遍路道をたどる人々と、遍路寺の近くに住む人々との間の自然な触れ合いが、佳く描かれている。


能果てて奥山冥き後の月★佐竹 昌子

浜松の北部の奥山に臨済宗方広寺がある。この地方の人々は半僧坊と呼んでいる。この方広寺で毎年観月会が開かれその時踊りや能などの催しが行われる。昨年は能楽が演じられ演目は「井筒」であった。この能が果てた頃奥山には後の月が登っていた。この時の状景を描いたのがこの句であろうと思う。陰暦八月十五日の満月にくらべ、陰暦九月十三日の後の月は、十三夜でもあり、月の光も少々冥くどことなく寒く、草木もどことなく寂しさを加えている。このような雰囲気を佳く表現した句である。能が果てた後の寂寥感も佳く出ている。


名月やあすなろの影真暗がり★黒野希志子 名月の明々とした光の中、あすなろの影の下が真暗がりになっているのである。俗説によれば「明日は檜になろう」があすなろの語源と言う。その真偽はともかく、若い時はそう言って自分自身を励ましたものであった。そのあすなろも堂々たる大木となり、満月の下しっかりとした影を作っている。希志子さんは九十三歳、現在も矍鑠としてこのように若々しい力強い句を作っておられる。是非これからもお元気で百歳までも否百二十歳までも佳句を作り続けて下さることを祈っている。