十人十色2014年3月

 

  島ひとつひよいと生まるる神の留守★多辺田 操    

 昨年二〇一三年十一月二十日、小笠原諸島西之島の付近にあった海底火山の噴火によって、新しい島が生まれた、丁度神の留守の頃であった。この句の面白さは、新島がひょいと生まれたのは、神の留守のことで、神様たちが考えて作ったのではなく、自然がいたずら心でやったと言っているように見えるところである。新島が生まれたという時局性を、神の留守に結びつけたところが、新鮮でありユーモアがある。自然が時々見せる思い掛けない光景を、明るくユーモラスに詠ったところが優れている。操さんは感性豊かな人、ますますの活躍を期待している。なおこの島は十二月二十五日に西之島に接続した。

 

  注連飾る武甲山の巌さざれ石★山中伊世子    

日本の国歌「君が代」に、「さざれ石」が詠われている。「砂子長じて巌となる」という言葉もあり、古代人は石の成長を信じたと言う。しかし実際小石が沢山結びついて一つの石のように固まる。それがさざれ石で、全国さまざまな地方にさざれ石がある。この句のさざれ石は、武甲山にあり、注連飾がつけられている。注連飾は言うまでもなく正月の季語であり、この句は武甲山の新年らしい風景を描いている。明るい淑気を感じさせる佳い句である。私が文部大臣の時、日の丸は国旗、君が代は国歌と定めた法律を作ったが、その時「さざれ石」は空想であり、科学的でないという批判があり、電話や手紙でそのような意見を述べる人が多かった。そのとき実際さざれ石はありますよと答えたものであった。

 

  あや取りの朝顔一輪咲かせけり★朝来野まき    

綾取は冬の季語である。そのあや取り遊びで朝顔の花を一輪作って見せたのである。あや取りに使っている糸は、あざやかな紫か、藍であろうか。白でも紅でもよい。朝顔の色は、白・紫・紅・藍と様々である。あや取りで何を作るのだろうと見ていると、色あざやかな朝顔の花が咲いたのであった。思い掛けない美しい花をあや取りで咲かせたところが、この句の美しさである。あや取りという遊びの楽しさが佳く描かれている。アメリカや英国では、あや取りをキャッツ・クレイドル(猫の揺り籠)と呼んでいる。アフリカ人はライオン、エスキモーは小舟や鯨、狐を作ると言う。夢のある句である。

 

  マネキンにはつと驚く師走かな★大下 亜由    

マネキンが着ている衣装が奇抜で驚いた様子が見えて来る。四季折々マネキンの衣装が変わるが、季節は年の暮、師走である。忘年会用に人を驚かす衣装か、新年用の超モダンな衣装であろうか。もう師走だと一年の締め括りの仕事で忙しく街を歩いていたのであろうか。或いは年の用意で急いで歩いていたのか。ともかく様々なことを考えながら街を歩いていた時、ちょっとショーウインドーに眼を向けたのであろう。突拍子もないマネキンの姿にびっくり仰天したのである。いかにも師走の街でありそうなこと、奇抜なマネキンの姿が生き生きと見えてくるところが佳い。

 

  燭をもて燭を継ぎ足す去年今年★荒尾 保一    

 もう五十年近く前、アメリカのプリンストン大学とラトガース大学の両方を行き来して暮していた。その年の大晦日私達夫婦と長男長女四人がプリンストンの友人の家に招かれた。蝋燭の灯のみで遅い夕食を食べた後、一本の燭を除いてすべての灯が消された。その時刻はまさに午前零時であった。「ハッピーニューイヤー」と言い合った後、残った一本の燭の火で次々と他の燭の火を再びつけたのであった。それはどこの国の風習かを聞かぬまま、我々は家路についた。この句にはどことなくこの大晦日を思い出す光景が描かれていて、興味を持った。去年今年らしい雰囲気を感じさせる佳句である。   

  吾が日記を隠れ読む妹一葉忌★畑中ひろ子    

 ひろ子さんが若い時から日記を書いていたのである。誰も読む筈はないと特に青春時代、様々な思いを書き綴っていたであろう。それをずっと後になって「姉さん、実はね、そっと姉さんの日記を読んだことがあるのよ。」と妹さんが告白したのである。二人してその時代の思い出話に花を咲かせたことであろう。その告白話そのものも今は懐かしい思い出になったのである。そう言えば一葉にも日記が隠れ読まれたという話があったことに気付いた。それは一葉忌の日、十一月二十三日のことであった。しみじみとした味があり、姉妹の愛情を感じさせる佳句である。

  濁音のなきアイヌ語やイヨマンテ★山本てる子    

 アイヌの人々が熊を祭神として行う祭りを冬に行う。それがイオマンテ、またはイヨマンテである。イヨマンテは熊送り、またカムイヨマンテは熊神送りを意味するアイヌ語である。どちらも濁音がない。そう言えばアイヌ語には全体に濁音がないのではないかと気付いたのである。長編英雄叙情詩「ユーカラ」という語にも濁音がない。主人公である孤児の名前はポイヤウンペであり、半濁音はあるが濁音はない。ただしポイヤウンベとしていう本もあり、その場合は濁音があることになる。それにしてもアイヌ語には濁音が少ないようである。イヨマンテの祭の際に交わされるアイヌ語も澄んだものであったのであろう。イヨマンテの祭が見えてくるようである。


  雛僧の痺れになごむ報恩講★魚谷美佐栄    

京都の東本願寺およびその系統の寺では、陽暦十一月二十一日から二十八日、一方西本願寺およびそれに属する寺では、陽暦一月九日から十六日まで、開祖親鸞の恩に感謝する法要が行われる。それが報恩講である。昨年十一月私は大垣や名古屋及びその周辺の仲間と伊吹山の麓を吟行した。その際報恩講に集落の人々が嬉しそうに参加しているのを見た。この句は報恩講で一生懸命御経を上げていた雛僧が、足の痺れで困っている様子を見て、信者たちが思わず同情して座がなごんだことを写生している。報恩講の信者たちのやさしい振舞がよく描かれていて楽しい。


  過去帳の添書に耽る霜夜かな★安居 和子    

 過去帳とか、墓碑の記録などには、先祖がどんな人であったかとか、その家族の構成について添書がある。  それを読むとそうであったか、そんな関係があの家との間にあったかとか、興味がそそられる。夜のことさら長く寒い霜夜は、家の中に閉じ籠ってしみじみと過去帳などを読むのに適している。そして読み始めると先祖の名前だけでなく、その添書に読み耽ってしまうのであった。過去帳と霜夜の組合せも面白い。思い掛けない光景であるが、それだけに現実の体験に基づく迫力がある


  縁側に真つ赤な手毬雪催★中島 正則    

 冬の日でも暖かい昼間であれば手毬をついて遊ぼうとしたのである。しかし空は雪催になり、気温も下ってしまった。そのためであろう、赤い手毬が縁側に置きっぱなしになっているのであった。しかしこの真っ赤な手毬が、真白な雪を待っているようにも思えてくる。庭が雪で真白になる。そこへ真っ赤な手毬がころげ出る。赤と白の対照が実に美しいではないか。雪催の空を真っ赤な手毬が眺めているという光景には、詩がある。この句にはそのような詩があると思うのである。

   Copyright@2013 天為俳句会 All Right Reserved