十人十色2017年11月

  


   はたと止む夜の風鈴円朝忌★荒尾 保一 

三遊亭円朝(一八三九 一九〇〇(明治三十三年))は落語家で、怪談「牡丹灯籠」「真景累ケ淵」などを自作自演した。円朝忌は八月十一日。今夜は円朝忌だと思っていると、ぱたっと風鈴が鳴らなくなったのである。何か妖怪でも近付いて来たような雰囲気である。円朝が語った「牡丹灯籠」を下げてお露の死霊が近付いて来たのかもしれない。私も落語好きな人間、かつて一九七〇年であったか、アメリカへ流出するのかと週刊誌(週刊新潮)の記者に聞かれて、いや落語のない国には永住はしないと言ったぐらいである。円朝忌と言われるとぱっと怪談を思い出す。保一さんもきっと落語好きに違いないと共鳴した次第である。

   船室の丸窓雷雲迫り来る★竹内 郁雄   

大きな客船に乗りその船室から海を見ているのである。その船室は丸窓である。波が高まって来た、と思っていると稲光がしてきた。遠くの方の空に雷雲が湧いている。船が進むとともに急速にその雷雲が狭い丸窓に迫って来るのであった。風も出て来て船を大きく揺らす。陸上の家の窓から見る雷雲と違って、船窓からしかも揺れる船から見る雷雲である。少々恐怖心も湧いて来る。そのような緊迫した気持ちが描かれている句である。私も若い時太平洋を船で往復したが、同じ様な経験を二、三度した。そのような思い出をさそい出してくれる力のある句である。

  蟬声も無きオスローの白き昼★森島  眞

オスロはノルウェーの首都である。オスロフィヨルドを深く一〇〇キロメートルほど入った港町である。夏の短い北欧である。昼は涼しく明るくまさに白い昼である。それどころか夜も十一時頃も明るい。白夜の街でもある。そのような夏の日なのに蟬が一匹も鳴いていない。「おや」と不思議に思ったところが面白い。そしてイギリス、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドなど北欧には蟬がいないことに気付いたのである。ギリシャやイタリア南部にいる蟬、日本の蟬、どこの蟬もみんな夏には一斉にうるさく鳴く。その蟬声のまったくないオスロの夏の静かな昼間に驚いた気持ちが佳く描かれている。

   平の国取りあとや松落葉★原  道代  

  源平の国取り合戦は、一谷、屋島、壇ノ浦などで行なわれたものが有名である。この句の国取りあとには松落葉とあるから一谷か屋島であろう。私は屋島の海での戦の後、屋島に上陸した源氏と守る平氏の戦を思い浮べた。屋島の丘の辺りを歩きながら松落葉を踏んでゆく。その時この屋島で壮絶な源平の戦が行われ、平氏の一部は志度浦さらに長門国の彦島へと逃れ去り、一部は四国の奥例えば祖谷渓へと逃げ落ちたのである。みずみずしく茂っていた松から、夏なのに風が強く吹くと青い松葉が降るように散ってくる。それを見て、平家一族の栄枯盛衰に思いを馳せたところが佳い。

   何かへと急く全速力の毛虫★佐久間裕子

  毛虫でも全速力で走ることがある。何であろうかとこの句の作者は見ているのである。でも何かは判らない。しかし毛虫は見ている人が何と思おうとかかわりなく、何かへ向って一所懸命走って行くのであった。毛虫のように小さな生き物にも、やるべきことがあり、その目的に向って真剣に走ったり、登ったりするのである。その毛虫が全速力で走る姿に生きてゆくための努力が感じられる。命の力強さが描かれているところが佳い。

   禅院の早き消灯夜鷹鳴く★佐竹 昌子 

  僧侶たちは早く寝て早く起きる。特に禅寺はそうなのである。多くの禅院は山や林の中にある。夜鷹は夕方と明け方前後によく鳴く。丁度禅院の消灯の時刻を告げるように夜鷹が鳴くのである。禅院の消灯の頃の静けさが、夜鷹の声と呼応しているようである。禅院の夏の宵の光景が佳く描かれている。夜鷹の鳴き声に焦点を合せたところが佳い。

   杖を手に無言の歩み原爆忌★津田 京子 

  八月六日広島に、九日に長崎に原子爆弾が投下され、多くの市民が亡くなった。日本の敗戦が明らかになり、終戦への努力が日本からも行われているときに、原子爆弾が用いられたことは何と言おうと、私は理解出来ない。国外で発言の機会がある度私はこの行為に否定的な発言をして来た。国内の発言だけでは弱いのである。それはともあれこの句のモデルは広島か長崎で被爆した人であろう。今は年をとり歩行もままならず杖をつきつき歩んでいる。原爆忌の日、その人が無言で歩く姿が、全身で原爆を非難しているのである。むしろ無言であることがより一層重く感じられるのである。

   稲光り友の死知らす電話かな★鈴木 信子

  急に稲光りがしてきた。その一瞬電話が掛ってきた。ふと不安を感じつつ受話器をとると、友の死の知らせであった。偶然の一致と言ってしまえばそれまでであるが、親友の命を心配していた時である。稲光りと死が一致したのである。私は自然科学者であるから、このような一致は偶然と考える。しかし私自身、はっと虫の知らせのような予感を持つことがある。しかもその予感通りの事が起るのである。物理の研究をしている時、或る問題についてさまざまな可能性を考えていて、ふっと正しい解法を発見することがある。日常でも同じかもしれない。それにしても稲光りと偶然一致した友の死の知らせが不思議である。

   水団扇流れて速し長良川★浜田 孫一  

  長良川は岐阜市街を経て濃尾平野を南流する大河であり、鵜飼で有名である。鵜飼は岐阜市と関市で行われ千年の伝統を誇っている。長良川の流れはかなり速い。その流れの上で夏の闇夜に鵜舟を浮べ、篝火をたいてあかりをとり、鵜匠が数羽の鵜を綱で操る。それを岸の上に集った人々が見ているのである。誰かが水団扇を落した。その水団扇が流されて行く速さから、人々は流れが極めて速いことを知るのであった。流れて行く水団扇の速さから、鵜飼の芸の巧みさを感じさせるところが巧みである。水団扇は雁皮紙を使った手漉きの和紙で作られる。透明に透ける美しい団扇である。

   これよりは司祭の道や青葡萄★山田 和子  

  司祭はキリスト教の聖職の一つである。特にカトリックでは重要な役であり神父と呼ばれる。この句の舞台はヨーロッパ、特にイタリアかスペインのように思う。丘や山にカトリックの修道院や教会があり、山の高い方などへ行く道は、聖職にある人々、司祭たちだけが登ることが許されているのである。その道には青葡萄の実がなっている。この教会でも葡萄酒を作っているのであろう。静かなどことなく厳かな修道院、もしくは教会の光景が佳く描かれている。