十人十色201年2月

 

   始業ベルもう鳴るおしくらまんぢゆうに★佐藤 武代 

  子どもたちの遊び方も我々の頃と違っていると思うが、でも鬼ごっことか押し競饅頭は残っているようである。おしくらまんじゅうは大勢集まって、押しくらべをする遊びであるから皆体が暖まる。したがって冬の季語としてよいと思う。冬の朝学校へ早く来た子どもがおしくらまんじゅうをして遊んでいると、始業ベルが鳴って皆大急ぎで教室へ行き始めた時の光景であろう。始業ベルをもうすこし拡大解釈して、昼休み時間におしくらまんじゅうをして遊んでいる子どもたちに、午後の授業を始めるベルが鳴り響いている光景としてもよい。冬といえ元気のよい子どもたちの明るい声が聞えて来るところが佳い。  

   秋深む印それぞれに九品仏★胡桃 文子 

  人間は生前積んだ功徳の大小によって九つの違う極楽浄土に行くといわれる。浄土には先ず上品と中品と下品の三品があり、その一つの品に上生・中生・下生の三等がある。全部で九になる。その九つの浄土で阿弥陀仏の両手の指の組み合せ方 それを印という が違っている。その九種の印の違った阿弥陀仏を合せて九品仏と呼んでいる。例えば上品上生の阿弥陀仏は両掌を上に向けて重ね、両手の親指と人差指を重ねている。晩秋九品仏を祀った寺に行き、印が少しずつ違うことを見て、それぞれが治める浄土はどのように違っているのかと考えたのであろう。そしてしみじみと秋が深まったと感じたのである。九体の阿弥陀仏の印の違いから深み行く秋を感じたところが佳い。

   雁渡し十字路多き城下町★藤江  尭  

  城下町は敵が攻めて来た時防御しやすいように袋小路を多くしたり、十字路が多くしてある。時に迷路すら作られている。秋になり雁が渡って来る頃、雁渡しと呼ばれる風が吹いて来る。その風が城下町の十字路に吹いているのである。風も城下町でどっちへ吹こうかと迷っているようにみえる。しかし飛んで来る雁は城下町を上から見ているから、道に迷うことはないであろう。城下町の光景が佳く描かれている。 

   満月へ祈るバリの女のプルメリア★小林ひろえ

  ジャワ島の東にある火山島がバリ島である。ガムラン音楽や古典舞踊で有名な観光の名所である。住民たちは殆どイスラム教徒になったが伝統的な舞踊や演劇そして音楽を大切にしている。プルメリアの花で頭を飾った女が満月に祈っている姿は美しい。もしかするとこの女は祖霊信仰をもつバリ・アガと呼ばれる先住民の一人かもしれない。異国情緒の濃い美しい光景を描いたところが佳い。

   鍬杖に帰る燕に手が挙がる★新井亜起男

  九月になり爽やかに涼しくなったと喜びながら、鍬で畑を耕しているのであった。そうすると近くの家々の上空へ何羽かの燕が群を成して飛び立った。燕たちが南の国へ帰って行くのだと、鍬を杖にして手を挙げ「元気で飛んで行けよ、来年の春には又おいで、さよなら」と心の中でさけびながら見送るのであった。あの群の中には何羽かこの集落で生れ育った燕もいるに違いない。来年又元気に戻って来て欲しいと手を振りながら、別れを惜しむのであった。自然と共生し、鳥や獣を愛する作者の気持ちが感じられる句である。

   ひよんの笛ひたすら吹いて留守居番★髙村るい子

  一人で留守居しているとちょっと淋しくなる時がある。机の上を見たらひょんの笛があるではないか。そこでそのひょんの笛を持って吹いてみると、ひょうひょうと鳴り出した。一生懸命吹いているうちに楽しくなり、淋しさをまぎらわすことができたのであった。一人で留守番をしている人の気持ちが佳く感じられる。ひょんの笛も面白い。  

   濃姫に太刀を忍ばす菊師かな★山田 和子

  濃姫は美濃の斎藤道三の娘であり、織田信長の正室であった。斎藤道三は美濃へ行商人として入り守護の土岐頼芸を追放し、美濃一国の大名になったといわれている。尾張の織田信秀(信長の父)と戦ったが濃姫を信長へ嫁がせて和睦を結んだ。しかし一五五八年子どもの義龍と戦って敗死したのである。父の死の前に濃姫は離縁されたとか死去したともいわれているし、信長の死(一五八二)の後も生きていて、死んだのは一六一二年という説もある。いずれにしても濃姫の生涯は波瀾万丈であった。従って常に小刀は勿論太刀まで忍ばせていたであろう。菊師が濃姫に太刀を忍ばせたことから、姫のこのような生涯が浮び上ってくる。

   星とんで白き港に白き船★澁谷 さと 

  白い港とはどこであろうか、どことなく外国の港のような感じがする。白い港の外には青の濃い海が広がっている。その港に白い大きな客船が入って来る。夜になっても港の白さ、巨船の白さはさまざまな光で浮き上ってくる。その空を時々流星が飛んで行く。白い巨船で旅を続ける一夜、白い港に着きそこで一夜を過ごしているような雰囲気である。旅愁が感じられるところが佳い。

   大根引くお告げの鐘に手を休め★倉見 藤子 

  お告げの鐘は神社のものでも寺のものでもよい。しかし何となくキリスト教の特にカトリックの教会のお告げの鐘に感じる。大根を引いていると教会から何かのお告げの鐘が響いてきたのである。大根を引く手を休め、そのお告げの鐘を聞き、祈りを捧げている信者の姿が浮んでくる。キリスト教と限らず仏教の寺からの鐘でもよい。信仰心の残っている地方の光景が描かれている。ノスタルジアを感じさせる光景が美しい。

   神在の波いや高き稲佐浜★手銭 涼月  

  稲佐浜は国譲の神話でよく知られている、島根県出雲市西部の日本海沿岸である。神無月になるとこの出雲は逆に諸国から神々が集まって来る。その八百万神(やおよろずのかみ)が上陸するところがこの稲佐浜である。現在では大社砂丘ともいわれる。この神在月には、稲佐浜の波が普段より一層高くなるように感じられるのである。そう思われるだけでなく、実際神無月の頃に神々を送る風、神渡しが吹く。それが稲佐浜の波をいや高くするのかもしれない。出雲の国の神在月の光景の一つ稲佐浜の浜の高まりを詠ったところが優れている。