十人十色2021年4月

   初空へ白き鳥飛ぶ師の詩魂★妹尾 茂喜  

  朗人先生に対する追悼句。元旦の大空を飛ぶ白い鳥を目にした。その白い鳥は旧臘亡くなられた先生の詩魂なのだと両者を重ね見たところに詩がある。朗人先生は古代史がお好きであった。特に『古事記』を深く読みこんでおられた。子どものころに母から与えられた鈴木三重吉『古事記物語』に親しんだこと、浜松一中時代に国語の三浦利三郎先生から『万葉集』や『奥の細道』とともに『古事記』を学んだことを回想記で語っておられる。『古事記』にはヤマトタケルが死後に白鳥になった話が見え、河内国の志幾に白鳥陵という御陵が築かれた伝説が残る。掲句を読むとそのようなことも連想されてくる。

   海神の師の句を胸に年の暮★竹田 正明  

  「海神の師の句」とは<海神の爐の沸沸と初日の出>を言うのであろう。朗人先生の第九句集『流轉』の冒頭句。句集ではその次に<太箸に遠つ淡海の光かな>の句が置かれており、冒頭句は遠州灘の初日を詠んだ作と推定される。初日が「海神の爐」から沸き起こってくる、という神話仕立ての作。その句を胸に温めながら歳末の日々を過ごしているというのである。朗人先生の突然の御逝去の報に、心の整理がつかないのであろう。「胸に」という一語が重い。

   神さぶる石鎚山や木花咲き★山下美津子  

  「木花(きばな)」は樹氷をいう。石鎚山は四国の中央部、石鎚山脈の主峰である。標高一九八二メートルあり、西日本の最高峰になる。四国というと温かいイメージがあるが、これだけ標高が高いと樹氷もふつうに見られるようだ。石鎚山は修験道の霊場として古くから知られ、富士山、御嶽山などと並び称されたという。「神さぶる」という上五を石鎚山にかぶせたことも納得される。石鎚山に関しては近世初期から石鎚講が結成され、今日でも四国、九州、中国地方に分布しているという。愛媛の人にとっては特別な山なのであろう。松山出身の石田波郷に<秋いくとせ石鎚を見ず母を見ず>の句がある。

   天山を背に筑紫野若菜摘む★高木 秀夫  

  春の野に出て若菜を摘む「若菜摘」は新年の季語。作者は佐賀にお住まいであるから「天山」は佐賀県の中央部に位置する天山山地の主峰を指すのであろう。標高一〇四六メートル。山麓にある天山神社は豊作祈願の神として知られる。山頂には南北朝時代に足利尊氏と戦って自刃した阿蘇惟直(これなお)の墓がある。「筑紫(つくし、別称ちくし)」は「古く、九州地方の称。九州地方全体を指す場合、九州の北半、肥の国・豊国を合わせた地方を指す場合、筑前・筑後を指す場合、筑前国、もしくは大宰府を指す場合などがある」(『日本国語大辞典』第二版)と揺れがあるが、掲句の「筑紫野」は「天山」との関係から佐賀平野を指すのであろう。「天山」「筑紫野」という大きな固有名詞を用いて新年詠らしい格の備わった句となった。

   春近し校歌に謳ふ茅渟の海★鳩  泰一  

  「茅渟(ちぬ)の海」は大阪湾の旧称。「茅渟」は大阪湾の東部、和泉国(大阪府南部)沿岸の一帯に当るという。『古事記』の神武東征のくだりに、神武天皇の兄の五瀬(いつせ)の命が那賀須泥毘古(ながすねびこ)の矢を受けて手に傷を負った際にその血を洗ったことから「血沼(ちぬ)の海」と呼んだという話が見える。『万葉集』巻七には<妹がため貝を拾ふと茅渟の海に濡れにし袖は干せど乾かず>、巻十一には<血沼の海の浜辺の小松根深めて吾恋ひわたる人の子ゆゑに>の歌が収められている。歴史を負った地名を歌詞に織り込んだ校歌。それが歌われる卒業式や入学式を待つ心が季語「春近し」に窺われる。

   逝く年の星曼荼羅に指を組む★白井さち子  

  「星曼荼羅」は中央に釈迦金輪を据え、周囲に九曜・北斗七星・十二宮・二十八宿をめぐらす曼荼羅。同心円で構成する円曼荼羅は天台宗、方郭を重ねる方曼荼羅は真言宗のもの。歳晩に星曼荼羅を拝した感慨を詠んだ作か。天台宗の瀧泉寺(目黒不動尊)では毎年冬至の日に星曼荼羅の開帳があるという。あるいは、「星曼荼羅」は天にかがやく星の見事さを曼荼羅に譬えたという読みもできる。山岳俳句で有名な福田蓼汀に<星曼陀羅かけてぞ悼む岳は雪><銀河曼荼羅かけ荘厳す聖岳>の句がある。

   去年今年紙屑籠に反故溜めて★西田 青沙  

  「去年今年」は新年の季語。<去年今年貫く棒の如きもの 虚子>が有名であるが、<去年今年闇にかなづる深山川 蛇笏><去年今年ゆふべあしたと竹そよぎ 桂郎>といった自然詠もいい。人事句としては<休漁を掟(おきて)の舟や去年今年 青畝><命継ぐ深息しては去年今年 波郷>といった句がある。掲句も人事句。原稿書きに追われているのであろうか。年末年始も無く、ひたすら机に向かっているのである。大学の卒業論文などでこのような体験をした人もいることだろう。

   新玉の船笛街を包みゆく★古川 洋三 

  「新玉の」は「年」「月」などにかかる枕詞。松永貞徳『俳諧御傘』に「枕詞といへども、おのづから改まる心あるゆゑ、後々は<あら玉の春>とも続け、また<年>とも<春>とも続けずして<あら玉>とばかり言ひて春の季を持ち、<年>の替へ詞になるなり」とあるように、「あらたま」だけで新年の意を持つようにもなった。<あら玉の馬も泥障(あふり)ををしむには 嵐雪><新玉のうら淋しさの故知らず 風生><あらたまの猪に目を入れ飴細工 朗人>はその例。掲句は新年を迎えた港湾。繋留されている船が日付の変わる時を待って一斉に汽笛を鳴らすのであろう。「包みゆく」という言葉が、港を中心にして形成された街の姿を想像させる。

   雪しまく多喜二通ひし地獄坂★折田 利夫  

  「雪しまく」は雪がはげしく吹き巻くこと。この句の「地獄坂」は小樽にある坂であろう。小林多喜二は秋田の生まれだが、多喜二が四歳の時に一家で小樽に移住した。小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)を卒業して北海道拓殖銀行に勤めるが、『不在地主』の執筆が原因となって、昭和四年に銀行を解雇される。その後、治安維持法違反や不敬罪による逮捕、保釈出獄を経て地下に潜行するが、昭和八年二月二十日に築地署に連行され、拷問によって殺された。作者は多喜二の学生時代に思いを馳せる。商科大学に至る商大通りは明治四十三年の開校当初から「地獄坂」と呼ばれていたようである。始業時間に迫られ、登り坂に苦しむ学生の姿が髣髴とする命名である。多喜二の代表作『蟹工船』の冒頭は「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」という言葉で始まることも思い起こされる。

   牛歩計なるを携へ年新た★小池 澄子  

  「牛歩計」は牛に装着する歩数計という。発情期が近づくと牛の歩数が増えることに着目し、畜産農家にその情報を伝えることで牛の繁殖の確率を高めることが出来るのだという。また、牛の怪我や病気を見つける役にもたつという。「なるを」という措辞に新たに導入された技術にまだ慣れていない感じが窺われる。新たな試みに踏み出す姿勢に新年を迎える気分と通底するものがあり、「年新た」という季語が働きだす。

◇     ◇     ◇