十人十色2021年6月 福永 法弘選

     三月十日隅へ隅へとかくれんぼ★安藤小夜子 

  平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災は、関連死を含めた死者・行方不明者が二万二千人余となる未曽有の大災害となった。今年は震災から十年の節目に当たることもあって、世間の注目は再び高まった。だがその分、その前日の三月十日、即ち、昭和二十年三月十日のアメリカ軍による東京大空襲(当時、東京大焼殺と呼ばれた)の惨劇は、マスコミなどの取り扱い方も小さく、まさに「隅へ隅へ」と追いやられた感があった。一夜の空襲で失われた人命は八万三千人余(朝鮮人等の未集計の死者数を加えると十一万人とも)。七十五年も昔の出来事とはいえ、けっして隅に追いやり隠したりしてはいけない負の歴史だ。

   生かされし残されしとも地震の春★藤本カヅエ  
   初桜すべてはそこに至りけり★益永 涼子  

  東日本大震災の日から十年がたった。亡くなられた方々に改めて哀悼の意を表するとともに、被災され今なお不自由な暮らしを強いられている方々にお見舞いを申し上げる。天変地異や戦争、犯罪被害などで心に傷を負った体験を引きずることをトラウマ(psychological trauma)と呼ぶ。多くは一過性だが、一部には、PTSD(Post Traumatic Stress Disorder)と呼ばれる精神的後遺症が発症する。
  生かされたと思うことは前向きだが、自分だけが残されたと捉えると、後ろ向きの被害感、疎外感が募り、十年たってもまだ続く余震に、居ても立っても居られない。
  忘れよう、思い出さないようにしよう、今を大事に生きようと努めても、ふと気が付くと、思いはまたあの日に至る。ああすべきだった、こうしておけばよかったと、けなげに咲く初桜を目にしてすら、堂々巡りに出口がない。

   青き踏むみんなマスクの縄電車★後藤  敬  

  マスクは冬の季語である。であるという現在形より、であったと過去形で表すのが正しいかもしれない。一昨年の十一月、中国の武漢に発したcovid-19(新型コロナウイルス)の世界規模の感染爆発により、マスクは感染防止の大きな手段として世界中に広まり役立つこととなったが、その一方で、季節感を失った。青き踏むは春の野に出でて若草を踏み歩いて遊ぶことだが、野遊びという同じような季語に比べて、微妙に陰りのある季語だ。縄電車で無邪気に遊ぶ子供たちとの対比で、その陰影はさらにはっきりと目に映ず。子供たちはカラフルな、絵柄のあるマスクをしているだろう。一方で作者は清潔感のある白だろう。

   コロナ禍に巣立ちゆく子ら松の芯★与那嶺末子  

  コロナに関することを俳句には詠まないと言っている俳人もいるが、震災や戦争などと並ぶ世界的な事件であり、俳句の素材として使って何ら問題ないと思う。むしろ、有馬先生は常々「俳句の素材でも詠み振りでも何でも良いから、新しいことに挑戦しなさい」と言っておられた。コロナを素材として詠んで、現代の世相を切り取る俳句に挑戦すべきだろう。若者はこのコロナ禍の制限された暮らしの中でも、新しい未知の世界に船出していかなければならない。我々年長者は、彼らの志を温かく見守り応援してやることが何より肝要だ。
(志松にもありて松の芯 鷹羽狩行)

   木の芽風出番間近の旅鞄★中澤マリ子  

  コロナが蔓延する前、世界は空前の旅行ブームだった。日本を目指してくるインバウンド客は年に三千万人を超し、一方で海外に渡航する日本人も二千万人に達していた。それらの需要がコロナによりあっという間に「蒸発」(旅行業界用語)してしまって一年以上も続く。有馬先生はコロナ以前には、学会や講演などで頻繁に海外渡航され、また、句会の指導も含めて国内各地にも出かけられ、旅が生活の一部となっておられた。それが制限されリズムが乱れたことによるストレスも、急逝された要因の一つだったように思う。ワクチンの普及がコロナ克服の大きな武器だ。旅鞄の出番はもう直だが、有馬先生の旅のお供はもはや叶わない。

   倶生神開く巻物へと桜★秋谷 美春  

  倶生神(くしょうしん)はインドから伝わった神で、人が生まれるのと同時に生まれるとされ、通常は男女一対。目に見えず重さもないが、その男女神は人の両肩の上にそれぞれ座り、その人の善行・悪行を記録し、それを閻魔大王に注進する役を担っている。この句に言う「巻物」とは、その善行・悪行を逐一記しておくメモ帳のことである。今まさに、人が為した行為を記録しておこうとメモ帳を開いたところ、そこに桜の花のひとひらが散りかかったのである。ペンを止めて「あ、きれいだ」と眺め入った瞬間、倶生神は何を記そうとしてメモ帳を開いたのか忘れてしまったに違いない。空想句だが、あまり知られていない珍しい神を引っ張り出してきて楽しい。

   心臓の二つ有る川水温む★川野  恵  

  ヘミングウェイに『Big Two-Hearted River』という短編がある。二つの心臓のある大きな川と呼ばれる川が舞台で、ミシガン州のアッパー半島を流れる川だ(ミシシッピ川の支流のミズーリ川だという説もある)。小説はこの川に分け入った主人公ニックが、そこでキャンプし、釣りをし、釣った鱒を料理して食べるシーンを丁寧に描写しただけのもので、渓流釣りのバイブルかとも思えるが、実は、戦場で心に傷を負った男の再生物語なのである。二つの心臓とは、一つがだめになってももう一つで力強く再生するという暗喩だ。そのほかの描写もみな、そう思って読めば、何かのメタファーだと言えなくもない。そこに、冬から春になる「水温む」の季語を当てたことは、間違いなく大きな手柄だ。

   冬銀河巨星となりて師は逝けり★関谷佐知子  
   師は逝けり紅きタワーの影おぼろ★妹尾 茂喜 

  有馬先生が亡くなられて半年がたった。信じられない光陰の速さだ。偉人が亡くなることを「巨星墜つ」などというが、一方で、人が死んだら星になるという言い伝えもある。前句は後者だ。満天の銀河を見上げながら「あゝ、あの星が有馬先生」と、ひときわ輝く巨星を指さして先生を偲ぶ。
  後句。有馬先生の指導された東京例会は、芝の機械振興会館で行われるのが常だった。句会が跳ねると先生とともに移動しティータイム。春先はまだ日が短いので東京タワーに灯の入る時刻も早い。先生とともに見上げたタワーの紅の灯が今は朧に滲む。コロナ禍でしばらく休んでいた東京例会だが、場所が代々木へと変わることとなった。もう、例会後に東京タワーの灯を見上げることもない。

   草餅焼く天平の色想ひをり★佐々木とし子 

  有馬先生の作品に(草餅を焼く天平の色に焼く)という人口に膾炙した句がある。この句は、それを本歌取りしたもので、先生に対するオマージュといえるだろう。近年は、作品のオリジナリティーあるいは権利意識が高まり、ちょっとでも似ていると、盗作だ、類句だ、類想だとかまびすしいが、本来の日本の諸芸では、尊敬する師匠を真似るのは当たり前のことで、師匠に似ることは弟子の喜びですらあった。師を偲び、師を真似ることは何ら恥ずべきことではない。有馬先生も本歌取りは日本の詩歌の伝統であると理解し、認めておられた。先人への尊敬の念がある限り、盗作とは明らかに一線を画したものなのである。

   足らぬ日の歩数加へて試歩うらら★柴﨑万里子  

  有馬先生は健康には留意され、十年くらい前までは一日二万歩、近年では一万歩を日々の目標とし、雨の日は地下の歩行空間を歩き、吟行先では、句会が跳ねた後で我々が酒に興じている間に、宿を出てその日の不足分を埋めておられた。この句は試歩とあるので、病後あるいは術後のリハビリの一環だろう。衰えは足からくる。足の筋肉は第二の心臓ともいわれる大事な部位だ。季語が「うらら」であることに、日々癒えていく実感がある。

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