『天為』 を読む

岸 本 尚 毅

 

 雛の夜の水あかりせる細格子

 

 「水あかり」という着眼を得て肌理の細かい仕上がりの句

となった。「雛」という室内の空間と「水あかり」のある戸

外の空間とが一句の中で通い合い、句に奥行とふくらみが生

じた。

 

 葛城の雨脚はやし雛の夜

 

 欲のないすっきりとした仕立て。「葛城」などという由緒 

正しい固有名詞は、それ自体が大粒の宝石のような言葉だか

ら、あとは飾る必要はない。この「雛の夜」の二句、いずれ

も夜の景色だ。闇の中の水あかりと闇を降る雨脚。まっくら

な空間の中のかすかな光をとらえている。

 

  紅の櫛ふところに阿波遍路

 

 櫛をふところにしまっているところを目撃したと解すれば

「(わたしは)紅の櫛をふところにしまった阿波遍路(を見

かけた)」という意味になる。だが、「(わたしは)紅の櫛

がふところにある阿波遍路(でどざいます)」とも解せる。

俳句の主人公が作者でなければならない、あるいは作者が句

の中にあらわれていなければならない必要はない。写生の方

法としては対象の外側から目でとらえるやり方が一般的であ

る。しかし、対象の内側に入り込んで対象の内側からものを

語るやり方もある。このやり方には想像力や感情移入が必要

である。それには心をこめてカラオケを歌える程度の想像力

があればよい。演歌には男性の歌手が女性の立場で歌う曲が

少なくない。殿さまキングスの「涙の操」 (あなたのために

守り通した女の操)、中条きよしの「うそ」 (折れた煙草の

吸殻であなたの嘘がわかるのよ)、ピンから兄弟の「女の道」

(わたしが捧げたこの人に)、細川たかしの「心のこり」(わ

たし馬鹿よね、お馬鹿さんよね)−いずれも主語は女だ。カ

ラオケの場合女性が男性歌手の曲を歌ったり男性が女性歌手

の歌を歌ったりすることがよくある。男女、老若、貧富、職

業の違いなどを越え、自分以外の人生を想像の中で体験する。

わたしたちは「兄弟船」を歌うときは若い漁師になった気分

で歌うし、おかまっぽい歌はそれらしく歌う。俳句もまた全

く同様で、あるときほ子供、あるときは老人、あるときは0

0といった具合に主人公は自由に変えられる。そのつど俳人

は人格を脱ぎ捨て取り替える。連句の展開も全く同じだ。変

身の喜び、演技の楽しさが俳句の大きな要素だ。

 さて、有馬朗人の句に話を戻そう。今、俳人は一人の女遍

路になり切っている。そのふところに紅の櫛を秘めもってい

ることは彼女自身を除いて誰も知らない。俳人が彼女になり

切ったからこそ、櫛を俳句に詠むことが出来た。

 

  光 堂 よ り一筋 の 雪 解 水

 

 光堂は言うまでもなく奥州平泉に藤原氏が建立した華麗な

阿弥陀堂。金箔のお堂である。雪解水は「ゆきげみず」と読

み、春になって雪が溶け、水と化したむの。北国の春を象徴

する俳句の季題である。光堂のあたりから一筋の水が地面を

流れて来た。冷たい雪解けの水。光堂の雪が雫となって流れ

て釆たのだ。もちろん実際の光堂は覆堂の中に納まっていて、

そこに直接雪が積もることはない。だが、この句の玲瀧たる

美しさは、あたかも光堂の金粉がきらきらと流れて来たよう

な幻想を誘う。

 

  星一つ二つ生れし梨の花

 

 心豊かな時の流れを感じさせる。清らかな梨の花を見つめ

る夕暮時。花と花の間の空が次第に暗み、星が一つ、二つと

現われる。昼から夜への移り変りを凝視する、ゆとりのある

心が静かだ。生れくる星の清例さに、梨の花の清潔感が相俟

って、少年のようにみずみずtい情感がある。

 星のせいか、それとも梨の花のせいか、この句、必ずしも

純日本的な肌合いでもない。この句の清らかな、純粋な感触

は、古今東西を問わない。長い時間、大きな空間の中でふと

出会った一滴の露のような光景だ。

 

  吊るされし肉を師走の道標

 

 坂だろうか。足早に歩く真っ正面に、吊るされた肉塊が見

えた。肉屋の店構えではなく、肉そのものが目に飛び込む。

ちょうど肉を目指して行く格好になってしまった。生命力を

強く感じさせる赤さに、ふと師走の人間のせわしなさを思い

合せる。それでもせかせかと肉を目指して歩いて行く自分。 

軽いユーモアの漂う一句だ。上五の「吊るされし」であるが、

それをより客観的に書くならば、「吊るしある」あるいは「吊

るしたる」となる。「吊るされし」は、肉塊への憐憫の情が

わずかに覗く、より人間探求派的な表現だ。この句に描かれ

た街角の風景も、洋の東西を問わず、人恋しい冬の眺めだ。

 

  殷ここに亡び菜の花明りかな

 

 「夏草やつはものどもが夢の跡 芭蕪」を連想する。ただ

し、滅びたものに対する思い、という点が類似しているだけ

で、感慨の質はずいぶんと違う。殷はあまりにもはるかな歴

史の彼方にあり、その滅亡を思うとき、悲哀よりもむしろ歴

史の悠久の方が身に迫る。さらに辺りを囲むのは菜の花の群

落である。輪郭のぼうっとした黄色い花明かりに包まれて伸

びやかになった心が、ふと歴史の巨大な流れに思いをいたし

た。大らかな詠みぶりに感傷は無い。そういえば虚子には、

「蛇穴を出て見れば周の天下なり 虚子」があり、ちょうど

般・周という題材は共通している。もっとも虚子の句は全然

句柄が違う。朗人の句は実直な旅吟であるし、虚子の句はい

くぶんふてぶてしい題詠の趣である。

 

  啄木鳥や貧しき村の砂糖菓子

 

 この句はバングラデシュでの作だ。「貧しき」とまともに

言ってしまって良いものかどうか若干気にはなるが、「啄木

鳥」と「砂糖菓子」には救いがある。俳人によって、救いよ

うのない突き放した句の書き方をする人と、必ずほっとさせ

るような救いの部分を用意する人がある。前者は極まった句

を作り得るが、後者は多少手ぬるくとも句のあたたかみを得

ることができる、どちらが良いとか悪いとかという問題では

ないが、芸術一般を考えてみると、音楽であれば、バルトー

クとかラベルとか全く隙のない切れ味の鋭い曲を書く人もい

れば、マーラーなど多少仕上がりが雑でも人間臭い幅の広い

曲を書く人もいる(独断かも知れないが)。 絵画でも、ゴ

ッホなど緊張度の高い絵もあれば、ルノワールのようにやや

無造作でもあたたかみのある絵もある。純粋な完成度、隙の

ない洗練をともなった作品と、隙だらけで人間臭い作品とを

比較すると、ただ言えることは、後者の方にオーソドックス

な形で広がりと奥行をともなった成熟に達した人が多いので

はないかということだ。バッハ、ルーベンス、横山大観など

には、いわゆる円満な大家のイメージがある。しかも円満な

大家は世俗の成功者でなければならない。経済的にも恵まれ

艶福家だったりする。それでいて作品は濁りながら深く、し

かも澄んだ部分もある。虚子はまさにそういった人ではなか

ったか。天逝の鬼才はもちろん魅力的だが、長寿にして円満

豊穣な天才の方がはるかに魅力的なのだ。朗人にもそういっ

た要素があるのかも知れない。

 

  夕日より濃き桜桃を竿秤

  海光や海より青き種袋

  長安や糸より細き冬の月

 

 いずれも○○より○○だという比較の文体を用いた作品だ。

比較の形はうっかりすると理屈っぽくなるのだが、これらの

句はそれぞれに情感がある。桜桃の句は「竿秤」で具体的に

つかんだのが良い。モノを介してぐいと手元に引き寄せるの

が俳句の基本だ。種袋の句はちょっと甘い。「海光」という

言葉が生硬で、種袋が青いという点がピンと来ない。いちば

ん情趣が濃いのは「長安や糸より細き冬の月」だ。阿部仲麻

呂のことなどを連想するとよい。「長安や」という大胆かつ

具休的な上五が良い。「海光や」などというムードだけの甘

い上五とは比べものにならない。「糸より細き」も一見平俗

と見えるが、糸が絹を連想させるなど、纏綿とした情感がよ

く出ている。大きくて堂々とした句だ。

 

 何もかも昼寝の街となりにけり

 

 これは南欧の句。「何もかも」が大きくて良い。青邨もそ

うだと思うが、朗人も決して小股の切れ上がった句を作る人

ではない。将棋でいう俗手も平気で指すことがある。句の輪

郭線は太い。だが、輪郭の太さはむしろ絵の大きさにふさわ

しい。キリコやセザンヌの絵を近寄って見ると、ずいぶん仕

上げが雑なように見える。しかし一歩しりぞいて見ると、彼

らの意図したコンセプトは明瞭に伝わって来る。俳句にもそ

んな一面がある。

 

  春暁やめざめは絹の道の中

 

 この句も健全な幻想。体の丈夫な人の見る夢だ。

 

  春月や妃おそれし王ありき

 

 この句は恐妻家の共鳴を誘うペーソス。出典はギリシアあ

たりかも知れないが‥。

 

  ゆく春の金銀厚き能衣裳

  金の靴一つ落ちゐし謝肉祭

 

 これらの句も健啖といえばあまりに健啖。

 

  たんぼぽのあまりに小さしメシア待つ

 

 朗人はどんなメシアを待つのか…。