天為秀句選
蒐玉集 ― 朗人・推薦 (平成19年9月号)
「天心集」より
たたかれて今年も回る扇風機 佐伯 啓子
けふ掛けし袋吹かれて暮れてゆけり 飯島 芳村
橋撥ねて白夜明けゆく運河かな 和久田隆子
鮎食うて義仲好きの男かな 日原 傳
亀の子の早やあめんぼを従へり 福永 法弘
夏蝶のゆくへを知つてゐる子かな 明隅 礼子
月色の翼をひらく青葉木莵 天野 小石
初鰹秤の針のふりきれる 丸谷 三砂
三山の一山晴れし山法師 紅林 照代
梅雨きざす洛中になほ勝手口 石川 克子
栓抜きに魂抜かれ走り梅雨 対馬 康子
白馬嶺を雲の下り来る半夏生 時田 貞子
西口に増えし屋台や桜桃忌 戸恒 東人
朝粥の馬さんの店つばくらめ 八十嶋祥子
恋せよと恋せよと芥子そよぎけり 仙田 洋子
創世記第三章に蛇生るる 津久井紀代
我消ゆるわづかばかりの片陰に 岸本 尚毅
扇風機売り場からいろいろな風 寺澤 一雄
青嵐鳶を放てる一樹かな 野崎 声山
鬱の字の二十九画梅雨に入る 瀬戸口靖代
「天為集」より
選評 ー 有馬 朗人 ー
太々と日差しを通す茅の輪かな 橋本 有史
六月の晦日に近くなると、神社には茅の輪が立つ。くぐれば身が清まるという言い伝えを信じる人にとっては勿論、不信心な人にとっても、茅の輪は夏らしい風物である。新鮮な茅で作られた茅の輪を見ると、もう今年も半分過ぎた、梅雨も終わって本格的な暑い夏が来るなというような気持ちになる。この句の茅の輪は大きく太いものであろう。太陽の光を太々と通している光景である。どっしりとした茅の輪に、太陽の強い光が通っている様子は、縄文か弥生か、古墳時代か、古代よりの日本の原風景である。この句には、そのような古代人の気持ちを読者に呼び起させるものがある。
酒桶の隅にどつかと五月闇 国島 輝夫
五月闇はさみだれの降る頃の暗闇や、夜が暗いことをいう。その五月闇が酒桶の隅にどっかとあるところが面白い。この酒桶は大きく幾つも並んでいるのではないだろうか。広い天井の高い酒蔵の光景であろう。酒好きの人にとっては勿論、そうでなくても、酒蔵の中のひやっとした澄んだ空気や、静かな雰囲気を好む人は多いとおもわれる。冬は冬で夏は夏でよいものであり、四季折々の良さがそこにはある。その酒蔵は何時も、特に梅雨の頃は全体に暗い。その中で酒桶の隅にどっかと五月闇が固まっていることを発見したのである。なお五月晴という言葉があるが、本来は梅雨のあい間に晴れること、しかし陽暦五月の晴天もいうので注意しなければいけない。
ひな罌粟や9区に小さき蚤の市 小高久丹子
9区の蚤の市といえばパリの光景に違いない。ただし本来の蚤の市は、9区の北側に続く18区のモンマルトルの方にある。そこにはビロン地区、パラル・ペール地区、ジュレ・ヴァレエ地区、カンボ地区、ウエルナシン地区、マリク地区と六箇所に分離していて、それぞれ骨董品、陶器類、家具類、装飾品、古着類と専門が分かれている。この句ではモンマルトルの隣の9区にも、小さな蚤の市があったという驚きと、そこにひな罌粟が美しく咲いていた喜びが詠われている。ひな罌粟が咲く頃は、パリが最も美しい気持ちのよい頃、パリの人々も、旅人も小さな蚤の市を楽しんでいるのである。
絵手紙のかしは餅先づ届きけり 中嶋ふさ江
誰からの絵手紙であろうか。兄弟姉妹からか、子どもたちからか。私は幼い孫の絵手紙ではないかと思った。文章だけでは充分に言えないので、こんな柏餠を送るからと、絵に描いて送って来たのである。その絵手紙を受け取った、ふさ江さんの嬉しそうな顔が浮かんで来る。そして美味そうな絵のある手紙を何度も何度も見なおしている様子も見えてくる。柏餠を季語として絵手紙に描かれたものを詠った句は珍しい。その点がこの句の新しさである。
その上にまたその上に滝細き 小林のぶ子
いろいろな滝がある。高い所から堂々と落ちる那智の滝のようなものもあれば、横幅の大きなナイアガラの滝のようなものもある。ナイアガラは幅七〇〇メートルのものと三〇〇メートルの二つがある。イグアスの滝は幅が四キロメートルもある。でもこの句の滝のような細い可愛らしい滝も又佳い。何段にもなって滝が続いているのである。一つ滝があると見ていると、その上にもそして更にその上にも滝がある。どの滝も細いが、上に行くほど更に細くなってゆくのである。この句で「その上にまたその上に」と繰り返して、滝の様子を丁寧に描いたところが佳い。
ほうたるの平家の舞の一夜かな 朝来野まき
蛍には源氏と平家があり、平家の方がやや小さいところが哀れを感じさせる。源平の戦いに敗れた平家の一族が、逃れて住んでいる隠れ里の蛍を見ているような雰囲気である。蛍を見に行った一夜、蛍たちは盛んに舞うように飛んでいた。栄耀栄華を極めた平家が、亡んで行ったことを悲しむように、或る時は華やかに、或る時は忍びやかに舞ったのであろう。この句の面白さ、哀れさは、蛍が平家蛍であることを確かめ、その群飛ぶ様子を平家の舞の一夜だと断定したところにある。亡び行く平家一族が最後の一夜を、舞い明そうとしているような雰囲気を感じさせてくれるのである。
花石榴角忘れたる鬼子母神 草野 茂子
鬼子母神は仏神であるので、鬼という字を避けてわざわざ「鬼(一画目のチョンが無い)」という風に書く風習がある。その鬼子母神には人の子を食べる悪習があったので釈迦が、鬼子母神が最も可愛がっていた末子を隠した。悲しむ彼女に末子を返しながら仏が諭したので、仏法の護法神となり、安産や育児の守護神になったという。一児を懐にして石榴を持つ姿が普通である。そのおだやかになった鬼子母神が、石榴の花の下に立っている。この句はその様子をまさに鬼が角を忘れたようにやさしいと見たのである。
石碑などの中にも、その石碑が尊いものだといって、「碑(六画目のチョンが無い)」と書くことがある。
竹皮を脱ぐや隣も脱ぐ構へ 樋口由美子
筍が何本か育ち、そのうちの一本が皮を脱いだ。すると隣の若竹も皮を脱ごうとし始めた。人間が仲間の更衣する様子を見てすぐまね、自分も衣をかえると同じように、若竹も競って皮を脱ごうとしているのである。若竹たちも人間のような感情を持って振舞っているようで、面白い。ユーモラスな明るい俳句である。
自然が見せてくれる朗らかな雰囲気がよく感じられて、面白い佳い句になった。同じ頃一斉に竹が皮を脱ぐのはあたり前であるが、いかにも競争し合っているように擬人化したところが佳い。そもそも「竹皮を脱ぐ」という季語は擬人化した表現である。
須佐之男を呼び覚したる男梅雨 錦織 希己
須佐之男は荒々しい力強い神である。梅雨に入った。しかも強い男梅雨である。その荒々しい男梅雨は、四月五月のよい季節に、うとうとと眠っていた須佐之男命を、呼び覚すように降ったのである。横になって眠っていた須佐之男が、男梅雨によって起され、どしどしと大きな音を立てながら歩き廻り始めたようである。
出雲では現代でもこのような神話のような光景、神話に出てくる山河が生きているのである。
西欧の人々にとってギリシャ神話や、バイブルの世界が、文学や芸術に入れ替り立ち替り現れるように、我々はもっと古事記や日本書紀の風土を詠ってよいと思う。
噴水の伸び上がるとき汽笛かな 三澤 則子
噴水が時々急に勢いがついて高々と昇ることがある。噴水が伸び上がったとき、港にとまっていた船が出航する汽笛を鳴らしたのである。いかにも噴水が高く上がったのを合図にして、船が出航するような感じである。港の公園の明るい夏の午後の光景であろうか。