天為秀句選
蒐玉集 ― 朗人・推薦 (平成19年11月号)
「天心集」より
水牛のあと草の矢の少女かな 西村我尼吾
鯉盗らるとて添水のよく鳴りぬ 小林 波留
聖母子はいつもふつくらさくらんぼ 仙田 洋子
十二橋つなぐ舟路や羽抜鶏 大木さつき
月の客メビウスの輪を落としけり 榊 倫代
漁網干す八一の浜の月見草 三輪 正子
竹を切る音あをあをと魂迎へ 山下美夜子
裸足参りいまも森濃き殉教島 宮田カイ子
新仏迎へる草家梯子掛く 坂口 知子
深昼寝三尸を出してしまひけり 佐伯 啓子
あたためて八月六日のカレーかな 池永 寛
婆の荷を預かつてゐる迎鐘 松村日出子
盆の波沖より紐の流れ来し 対馬 康子
吊革のしづかに台風圏の中 津久井紀代
噴水のいま王冠のかたちなす 丸谷 三砂
父恋ひの花芯の紅き灸花 紅林 照代
青柿のほとりの水の迅さかな 日原 傳
旅の荷を解けばこぼれし天花粉 明隅 礼子
幽霊の足音聞かす夏の寄席 佐藤 至子
抽斗より白砂こぼるる夜涼かな 坂本 宮尾
「天為集」より
選評 ー 有馬 朗人
蓮の花散りて咲き継ぐ水浄土 正岡 禾刀
蓮の花が咲いている。その池はあたかも浄土のように美しく静かである。率直に言ってこれはよく見る光景であり、平凡である。しかしこの句では、単に蓮の花が咲いた浄土と言うのではなく、「蓮の花が散りて咲き継ぐ」と言っているところが佳い。散っては又咲き継いでいるところに、春夏秋冬のいつもこの水浄土に蓮の永遠の生命が続いている姿を描いているのである。永遠を静的に止まっている姿ではなく、絶え間なく散ったり咲いたりしながら、生生流転して永遠の業(カルマ)を重ねて行くものとして描いている。それも因果とか業苦の世界としてではなく、咲いては散る美しい蓮の浄土として描いたところが佳い。
妖精の小さな木椅子夜の秋 佐藤 萌
童話的な楽しい光景である。昼間はまだ暑い晩夏ではあるが、夜になると涼しく秋めいた気配が感じられる。そのような夜の秋に散歩に出掛けるのは、本当に楽しい。昼間はまだまだ暑さが厳しく外を散歩する気持ちにならないのであるが、夜になると森の中でも散歩したくなる。夏のことであるから、夜といえどまだ明るい。特に北国となれば余計夕方が長い。その散歩で入って行った森の中で小さな木椅子を見付けたのである。小さな木椅子で、大人は勿論子供にも小さ過ぎるくらいである。これは妖精が座る木椅子だと思ったのである。きっと妖精も夜の秋を楽しんで、音楽会でも開くのかもしれない。そのような楽しい想像も夜の秋らしい。
流れ星見つけてメール打つてをり 植田彩芳子
若い人らしい楽しい、ロマンティックな俳句である。昔なら「流れ星を見付けた」と手紙を書くところであろう。それをメールにして打っているところが現代的であり、それを使いこなしている若い人の姿が描かれている。この十年の間にeメールが生活の手段になった。情報のやりとりも一瞬にeメールで出来るようになった。外国へ出張して学術講演などをするときに、不足な資料もメールで日本から簡単に取り寄せられる。便利な時代である。この句で流れ星を見付けたということをメールにしたところが面白い。流れ星という瞬間に消えるものを、瞬間的に伝えることが出来る手段がeメールだからである。
爽涼の鶏冠の赤や若冲忌 合谷美智子
若冲の人気は近年特に高まっているような気がするがどうであろうか。私がそう思うのは若冲の展覧会がしばしば開かれるし、讃岐の金刀比羅宮の屏風絵の展示会が東京であったりするからである。若冲の絵の写実性や色彩の鮮やかさが、今日の我々の目を楽しませてくれるからである。私もかなり以前から若冲の絵の愛好者である。この句の「爽涼の鶏冠」で若冲の絵が頭に浮かんでくる。まさに爽涼の鮮やかな鶏冠こそ、若冲の絵である。
若冲忌と言ってもどの季節かすぐには分らない。そこで爽涼という季語で、季節がはっきりする。よほど有名な人の忌を除けばこのように適切な季語を詠み込んだ方が佳いと思う。
虹二重アイヌの神のあそぶ湖 中里 晃子
アイヌの神話・神謡はカムイユカラと呼ばれる。そのアイヌの神々が遊んだであろう湖が北海道のあちらこちらにある。その一つの湖の上に二重の虹が立っている。その虹を伝わってアイヌの神たちが人間の世に遊びに降りて来るようである。この句で虹が、二重であることによって、神たちが人の世を訪ね、その後また天へ戻って行く橋のような想像を浮かべさせてくれて面白い。アイヌ民族にはユーカラという優れた伝承がある。これは英雄叙事詩であり、神謡ではないことに注意すべきである。
一片の雲も許さぬ大暑かな 今田 敏廣
今年の夏は異常に暑かった。これも地球温暖化現象の表れの一つと考えられている。今後も更に気温が上昇する心配がある。さてこの句では、太陽の光を少しでも遮ってくれる雲が一片もなく、太陽は絶え間なくじりじり照りつけてくるのである。
「一片の雲も許さぬ大暑」と言ったことによって、尋常な暑さでない、堪え難い大暑であることを読者に強く感じさせるのである。
チェンバロの響くエルムの森晩夏 山上 順子
北海道の俳句の仲間と一日北海道大学を訪ねた。順子さんも一緒だった。その時北大の博物館でファーブル展が開かれていた。この博物館の一部屋に北大の構内で倒れたエルムの樹で作ったチェンバロがあった。この博物館はエルムの森の中にあり、チェンバロを弾くと森に立っているかつての友人たちに語りかけるように響くのであった。季節は晩夏、北海道の一番良い楽しい季節である。夏休み中ではあったが校内には男女の学生諸君や、市民そして旅人たちが大勢、札幌の美しい晩夏を楽しんでいた。なおチェンバロはグランド・ピアノに似た形をしているが音の出し方は違う。ハープシコードとも呼ばれる。
松原の静けさにゐて蟻地獄 赤穴千穂子
蟻地獄はたしかに大寺の軒下の砂地とか、松原の隅にひっそりとある。蟻地獄というと私は、名句
蟻地獄寂寞として飢ゑにけり 富安 風生
を思い出す。この蟻地獄も寂寞としているのである。千穂子さんの句では、松原そのものが静かであり、その静かさを選んで蟻地獄が住んでいるように思える。蟻地獄が黙って蟻が落ちて来るのを待っている。その様子をかなり長い時間見ていたことがあるが、蟻は近寄りもしなかった。私は、切り株にぶつかって死んでくれる兎を待っていた宋の国の愚かな人の物語を思い出していた。
大文字の炎映せし瓶の水 福井 雅泉
八月十六日夜、盆の行事として京都市東方の如意ヶ岳の西峰に大の字を描いて火が燃える。近年は他の地方、例えば神奈川県では箱根でも大文字が行われる。この句は箱根の大文字を詠ったものかもしれない。大文字の火が燃える山の近くの部屋に、花瓶であろうか、ガラス瓶が置いてあり、そこには水が一杯入っている。大文字の炎が明々と燃え上った時、その炎が瓶の水に映ったのである。
大文字の炎の勢いを傍で見るのもよいが、少々距離を置いて見ることも楽しい。近くで見る炎の烈しさと比べて、瓶に映る炎の色の静かさが佳い。
満ち潮の光またたく沙羅の花 加藤 廣子
沙羅は夏椿とも呼ばれる。直径五、六センチの椿に似た白い花である。
潮が満ちて来てその光が、海岸に咲いている沙羅の花を照らしているのである。梅雨も終る頃の明るい海岸の光景である。海光に照らされて輝く沙羅の花は美しい。このような自然の美しさは、心が落ち着く。人事の句は作り易いし、面白さを出し易い。しかし自然の美しさ、安らかさを、現代人の目で発見し詠うことも大切なことである。