天為二百号記念特集

    「検証・戦後俳句」
      もう一つの俳人の系譜



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      相馬遷子論

      
 ー 至高のヒューマニスト ー


                  深谷 義紀





  一. はじめに  レッテル張りの危険 

 相馬遷子の句業を語る際、必ずと言っていいほど付いて回るのは「(馬醉木)高原派のリーダー」との称号である。例えば、「(昭和)二五年頃より大島民郎・堀口星眠らと作句をたのしみ、所謂高原派の指導者となった。」(明治書院刊・現代俳句大辞典[初版]・堀口星眠執筆)あるいは「馬醉木高原派と呼ばれ、清澄な作風によって知られた。」(小学館刊・集成昭和の俳句)などである。
 だが、遷子の句集を実際に読み進めていくと、そうした称号あるいは位置付けに大いなる違和感を感じざるを得ない。遷子の句は、戦前の水原秋桜子の高原俳句や「高原派」同僚の星眠・民郎の純粋自然賛歌とは大いに趣を異にするからである。そしてこの疑問は、遷子の実質的第一句集『山國』に石田波郷が寄せた跋を読み、氷解した。少し長くなるが引用する。

  馬醉木の中に高原派と称される人々がゐて、相馬遷子氏はその中心と目されている。高原派が主として信州の自然に材をとり、遷子氏がその信州南佐久に住してゐるので一層さう見られやすいのであろう。然し高原派の本質は堀口星眠君によって代表されるべきものである。都会で、あるひは亜都会で近代文明下の生活を送ってゐる者が、自然の呼声にひかれて、近代文明の桎梏から精神を解放して自然の中に没入し、高らかに自然讃歌をうたふ。これが高原派の本質である。このやうに見るとき相馬遷子氏の俳句は、高原派とは異質のものであるといはざるを得ない。
 (中略)[遷子の]句は必ずしも讃歌ではない。たとひ讃歌ではなくても、著者の、自然への、といふよりも、郷国の自然へのどうしやうもない愛情が、境涯的にそくそくと通つてゐるのを感じざるを得ない。これは「自然への、純粋な傾倒」とは異なるものである。

 正鵠を射た評である。レッテル張りというのは便利な面もあるが、得てして本質から目を逸らさせてしまう危険がある。
 さて、この波郷の跋はあくまで昭和三十一年時点のものである。遷子の句集について言えば、『草枕』『山國』のみが論評の対象であり、その後に刊行され、遷子の句業のなかで重要な地位を占める『雪嶺』『山河』は含まれていない。では、六十八年に亘る遷子俳句の全容は如何なるものであったか。波郷の言に沿って一層の深化を遂げたのか。それとも異なる発展経路を辿ったのか。以下において、遷子俳句の本質に多少なりとも迫ってみたい。


  二. その生涯と句業概観

 まず遷子の句業を簡単に振り返ることから始めたい。
 遷子の作品は、その制作時期によって、大いに句風を異にする。ここでは、その居住地(ないしは生活環境と言ってもいい)によって、次の四つの時期に区分して見ていくことにしたい。

(一) 初学期から応召まで

 遷子は、昭和十年初夏、東大医学部出身者の集まり「卯月会」にて句作を開始し、水原秋櫻子に直接の指導を受けた。そして昭和十五年には「馬醉木」同人となっている。この時期の作品には、

  草枕ランプまたゝきしぐれくる      『草枕』
  昨日獲て秋日に干せり熊の皮
  熊野川筏をとゞめ春深し
  瀧をさゝげ那智の山々鬱蒼たり
  雷の下雪渓を馳せて膝ゆるむ
  霧破れ頂上の標の字ぞ見ゆる

など馬醉木流の純粋自然詠による風景句が目に付く。波郷も言うように、もし太平洋戦争が勃発せず、遷子の生活が平穏なものになっていたなら、そうした句風のまま「純粋自然詩人」としてその句業を全うしていたかもしれない。
 一方、この時期に波郷の知遇を得、「鶴」の連衆とも交友を重ねている。昭和十三年には「鶴」同人となる。

  雁の列寒き落暉の中に入る      『草枕』
  梅雨めくや人に眞青き旅路あり

といった句に、その影響を見ることができよう。

(二) 中国大陸での従軍期

 昭和十五年遷子は応召し、中国大陸東北部に軍医見習士官として出征する。この時期には、

  湯浴みつゝ黄塵なほもにほふなり      『草枕』
  光風に幾日剃らざりし顏を撫づ
  緑陰に徹夜行軍の身を倒す
  栓取れば水筒に鳴る秋の風

など、自ずと厳しい従軍生活を詠んだ句が並ぶ。(一)の時代の明るい風景句とは全く趣を異にすることに驚くばかりだが、戦争という特殊な環境下において、厳しい従軍生活や生命を維持するのに懸命な己の肉体が句の対象にならざるをえなかったのである。

(三) 函館病院勤務時代

 こうした従軍生活は遷子の健康を侵し、ついに病を得、帰国することとなる。昭和十八年に市立函館病院内科医長として、見ず知らずの地に赴任、北海道での生活が始まる。この時期の句として、

  煮凝や他郷のおもひしきりなり      『草枕』
  ひたすらに蝦夷の花咲く風の中
  元日や部屋に浮く塵うつくしき
  三人の子あるひは似たり夜の吹雪
  くろぐろと雪片ひと日空埋む
  春の霜幼子黙す別れかな

などがある。いずれの句も句調は重く境涯性が濃い。こうした変化について波郷は、函館在住の「鶴」同人齋藤玄(「壺」主宰)との深い交流の影響と指摘する。だが、従軍経験や見ず知らずの土地への移住を経て、遷子が生来有していた人間あるいはその生活への関心が発露し、かかる句を詠ませたと考えたい。

(四) 佐久帰郷以降

 終戦を迎え、家族ともどもようやく戦火をくぐりぬけた遷子だったが、無理が祟ったのか病気を再発する。昭和二十一年に信州佐久に帰郷し、療養することとなる。

  小春日や故郷かくも美しき      『草枕』
  吾子とわれ故山に立つる鯉幟    『山國』

 そして病状が回復した翌昭和二十二年に地元で医院を開業する。だが、当時の佐久(旧野澤町)は、

  山峡に字一つづゝ秋晴るゝ      『山國』
  天ざかる鄙に住みけり星祭

といういわば辺境の地であった。そのため、

  四十にて町醫老いけり七五三     『山國』
  寒雀故郷に棲みて幸ありや
  百日紅學問日々に遠ざかる
  虎落笛涙にじみてゐたりけり

と、辺境蟄居の想い、孤独の愁いが募っていく。
 そんな遷子を訪ね鼓舞したのは、先にあげた星眠・民郎の両名である。彼らが幾たびも軽井沢の森の家に通い、信州の自然を対象にひたむきに句作に打ち込む姿に触れ、遷子の情熱も再燃せざるをえない。十歳以上若い彼らと精力的に吟行を重ね、句作に邁進して行くのである。

  夜の荘霧をまとひて友入り来     (軽井沢・昭和二十六年)
  きりぎりす火山の膚かくれなし    (軽井沢・昭和二十七年)
  こほろぎや尼が來て消すミサの燭
  しづけさに山蟻われを噛みにけり    (入笠山・昭和二十九年)
  ほとゝぎす口すゝぐ間も夜の白む
  双眼に牧をあまさず南風吹けり     (神津牧場・昭和三十一年)

 冒頭に述べた「馬醉木高原派」という名称はこの時期の彼らに寄せられたものであり、三人の中で最も年長だった遷子はそのリーダー格と看做されたというわけである。
 以後、遷子の句業は順調に発展を遂げていくが、その軌跡は決して単純な一本道ではない。その作風はまた幾たびも変化を重ねていくのである。
 そして昭和三十二年馬醉木賞、昭和四十四年句集「雪嶺」にて俳人協会賞、昭和五十年葛飾賞をそれぞれ受賞。昭和四十五年より二期に亘り馬醉木の同人会長を務めるなどしたが、昭和四十九年に胃癌を発症、昭和五十一年惜しまれつつ逝去した。


  三. 遷子が追い求めたもの

 以上を前置きとして、遷子の俳句について、佐久帰郷以後の作品を対象にその特質を掘り下げてみたい。
 まず遷子の作品には、幾つかのテーマというべきか、熱心に取り組む対象が存在する。そして、若き日にそのテーマが生活環境の変化によって惹起されたことは先に見てきたところであるが、佐久帰郷後もテーマの変遷は続く。
 では、かかる変遷がなぜ起こったのか。遷子が生命をかけて詠みあげようとしたものは何だったのか。そして遷子俳句の本質とは何か。その句作を通じて考えてみたい。

(一) 愛すべき故郷の風土

 遷子の句で最も多いのが、在住していた信州佐久の自然を対象としたものであろう。

  明星の銀ひとつぶや寒夕焼      『山國』
  雪嶺へ酷寒滿ちて澄みにけり
  燃ゆる日や青天翔ける雪煙

 これらは、波郷により「格調の正しさと声調のきびしさが渾然と了ち合って、意味を通さないで作者の詠まんとするものが読者にひゞく思がする」と絶賛された句である。その他、

  夕星やおとろへそめし雪解風      『山國』
  涯しなき青田炎天白濁す
  露草に乳房なづさふ朝の山羊
  花野より巖そびえたり八ケ岳
  遠天に雪山ほのと秋の暮
  町の上に淺間が青し夏祭
  あをあをと星が炎えたり鬼やらひ
  高空は疾き風らしも花林檎
  地のかぎり耕人耕馬放たれし
  中空にオリオン揚げて村凍てし     『雪嶺』
  田を植ゑてわが佐久郡水ゆたか

など郷国の自然を率直に詠みあげた句に加え、表面的には自然を対象として詠みながらも、その実、己の心象を託した句として、

  冬を待つ川原の石のひとつひとつ     『山國』
  晝の蟲風に向へる頬冷えて
  光まとひて十一月の枯木ども
  雪解けて野は枯色を極めたる
  風に聞く雪解山河の慟哭を
  うらぶれし冬にも心遺すなり
  雪嶺の光や風をつらぬきて        『雪嶺』
  曇り空かりがね過ぎし跡ひかる
  雪山のどの墓もどの墓も村へ向く
  おのがじし負ふ影深し月の稻架
  はるかなる旅の風過ぐ枯盆地
  四月始まる豁然と田がひらけ
  許されし水狂奔す春の田を
  雪刷きておのれ幽めり夜の山
  柳の枝芽吹くや風に靡きしまま
  晩霜におびえて星の瞬けり        『山河』
  炎天のどこかほつれし祭あと
  夜の空も北は淋しき鬼やらひ
  噴煙はますぐに太し稲雀

などがあげられよう。後者について、波郷は「郷国の自然風土の中に、自らの境涯的人間を投影した」句と評する。
 また、昭和三十年代以降は、

  山河また一年經たり田を植うる      『雪嶺』
  梅雨晴るる家畜のにほひ土に染み
  ころころと老婆生きたり光る風
  酷寒に死して吹雪に葬らる
  百姓は地を剰さざる黍の風
  梅咲くや傾斜にすがる畑作り
  頬白や家なき原を郵便夫
  禮服の農婦坂行く山櫻
  女手に畦塗る畦は長きかな       『山河』
  田草取る手の平ほどの棚田にて

など、そこに生きる人々をも視野に入れた句が目立つようになる。遷子にとって故郷の自然は単なる風景ではなく、そこに住む人々と共生する場だったのである。

  夏樂しこの山國に土着して       『雪嶺』

 遷子は「高原派」というよりも、むしろ「山國(土着)派」とでも呼ぶほうが相応しいと思う。

(二) 医師としての眼差し

 前述のとおり、佐久帰郷後、遷子は市内で開業医としての生活を送る。遷子俳句の次のテーマは、この医師生活それも市井の開業医としての活動に材を得た句である。

  二日はや死病の人の牀に侍す      『山國』
  風邪の身を夜の往診に引きおこす
  ストーブや患者につゞる非情の語
  夕蝉や默して對ふ癌患者         『雪嶺』
  汗の往診幾千なさば業果てむ
  死病診るや連翹の黄に勵まされ
  羽蟻身に開業醫には停年なし
  凍る夜の死者を見て來し顔洗ふ      『山河』
  春寒し医師招かれて死の儀式

などからは、他人の生死に直接関わる医師という職業の厳しさが伝わってくる。当然のことながら境涯性の強い句ばかりであり、鶴の流れを汲むものと言えるかもしれない。
 さらには、

  山に雪けふ患者らにわれやさし      『山國』
  寒夜診て來し患者はすでに寢ねたらむ
  筒鳥に涙あふれて失語症         『雪嶺』
  水洟や手遅れ患者叱しつつ

などの句には、患者に注ぐ暖かな眼差しがある。だから、

  蝌蚪見るや醫師たり得ざる醫師として   『山國』
  隙間風殺さぬのみの老婆あり       『雪嶺』
  病者とわれ惱みを異にして暑し
  風邪患者金を拂へば即他人

などの、自分の力が及ばないことへの苛立ち、もどかしさなどを詠んだ句も生まれた。二句目には患者の命を救えない自責の念が、三句目には己の立場に対する含羞が、四句目は逆説的措辞の根底に患者が重篤に至らなかったことへの安心が満ちている。
 そして、こうした医師としての思いの深さが、一開業医としての責任感を超え、患者の生活や背後にある社会環境の矛盾にその関心を拡げさせていく。

  農婦病むまはり夏蠶が桑はむも     『山國』
  大寒や老農死して指逞し         『雪嶺』
  藥餌謝して死を待つ老やうすら繭
  卒中死田植の手足冷えしまま

 一句目は病を得た農婦の貧しい療養環境を、三句目は患者の経済状況の苦しさ(あるいは社会保障制度の不備)を、二句目、四句目は農業従事者の壮絶な死を詠んでいる。こうした関心の拡がりは、後述のように社会性俳句とも言うべき作品につながっていく。

(三) 家族への慈愛

 次に、家族を詠んだ句をを採り上げたい。
 まずは、子を対象とした句から。家族を詠んだなかでも最も多い。

  子が持ち来夏純白の通知箋       『山國』
  四人子の机並べたりあたゝかし
  秋の夜の子が聞く受驗講座憂し
  いさかひを樂しむ子等か暑き夜も
  妻病めば子等諍かはず雪催ひ
  かすむ野に子の落第をはや忘る     『雪嶺』
  晴風雪合格以後の三日長し
  突如たる子の叛逆や冬旱
  子が示す乙女の冩眞冬あたたか
  歸省の子みな立ち去りし七草や
  嫁ぐ子に遣る何も無し秋深む
  子が娶り旅立ちしあと秋深む

 どの句からも生真面目な父親の姿が見える。息子・娘の健やかな成長への願いや、子育てを終えたあとの満足感・寂寥感が率直に表出されており、読む者の共感を得る句ばかりである。
 一方、愛妻を詠んだ句には、

  風の日も妻の執心大根洗ふ       『山國』
  妻病めばいや山國の春遠し
  銀婚を忘ぜし夫婦葡萄食ふ       『雪嶺』
  終ひ湯に欠伸して母の日の妻よ
  古妻と梅雨の嘆きを共にして      『山河』
  酷寒や日毎小さくなる妻に

などがあり、妻に対する慈愛や共に暮らしてきた末の穏やかな日々が活写されている。そして、

  百舌鳴くや妻子に秘する一事なし    『山國』

遷子四十七歳の句。あくまでも真摯に高潔な人生を生き抜いた男の生き様がここにある。
 また、両親を詠んだものにも、

  遠く見て春日の中に母老いし       『山國』
  母病めり祭の中に若き母         『雪嶺』
  鳥は雲に老い父の腰やや曲り
  老い父に日は長からむ日短か      『山河』
  父逝きて父の盆栽冬みどり
  降る雪に悲しみはたゞ怺ふべし
  老い母の違和はすべなし朝ぐもり

など、叙情性溢れる句が並ぶ。とりわけ、二句目の若く健康だった母への思慕、五句目、冬枯の景の中盆栽の鮮やかな緑が呼ぶ悲しみが切々と伝わってくる。

(四) 社会的関心の拡がり

 高原派のリーダーというイメージ(それが実態を反映したものではないことは既に述べた)からすれば相当意外ではあるが、遷子作品に社会性俳句と思しきものが見られる。
 最初に登場するのはおそらく、

  寒うらゝ税を納めて何殘りし       『山國』

であろう。昭和二十五年の作と思われる。遷子はこの後も税務署に材を得た句を作り続ける。

  雪嶺よ税務署の窓磨かれて      『雪嶺』
  三月の飛雪見てをり税務署にて
  税務署の暖房暑からず寒からず    『山河』

 遷子にとって税務署は、市民生活を省みない公権力の象徴だったのかもしれない。
 また、医師として詠んだ句に社会的関心が及んだものが多く含まれていることは、前述のとおりである。
 他にも、

  愛國者國會に滿つ日短き        『山國』
  人の言ふ反革命や冬深む       『雪嶺』
  現實の平和と眼前の冬麗と
  夏痩の身に怒り溜め怒り溜め
  ストーブや革命を怖れ保守を憎み
  着膨れて金貯めて欲つきざるや
  滂沱たる女の汗や絲を取る
  人類明日滅ぶか知らず蟲を詠む
  掛稻に放射能雨の止む日無し
  慇懃に金貸す銀行出て寒し
  春の雪掻けば重たし戰止まず
  プラハの街に戰車聳ゆる秋の風

などがある。
 これらに関して、筑紫磐井は次のように言う。

  遷子が医師俳句を詠み始めたのは昭和二十八年ごろ、『山國』の「秋郊」の章(昭和二十九年)のあたりから顕著になるのであり、またそれらの句と同時に社会的関心を秘めた句が詠まれていることを考えてみると、むしろこの時代、即ち社会性俳句の登場した契機を考えに入れるべきかもしれない。馬醉木の超然とした俳句に浸っているように見えるが、実は社会的関心を持たないではいられないところに遷子俳句の人間性を感じるのである。

 同感である。とりわけ後段については卓見だと思う。したがって、遷子のこうした社会性俳句は、イデオロギー言々に由来するものではなく、遷子が生来持つ正義感あるいは弱者への共感の自然な発露と捉えるべきであろう。
 ちなみに、前段の「この時代」について若干付言する。社会性俳句に縁遠そうな林翔ですら、昭和三十一年には海苔不作により壊滅的打撃を受けた浦安町に取材し、<痩せ葱と海苔なき海苔簀錯落す>などの連作を発表している。しかも秋桜子はこれを馬醉木の巻頭に選んだという(角川選書「12の現代俳人論」水原秋桜子論<執筆・筑紫磐井>より)。後世の我々からすれば意外ではあるが、純粋自然美志向と思われた馬醉木にも、こうした社会性を帯びた俳句を受容する素地が存在したわけである。磐井の言う「この時代」とはこうした雰囲気を指したものであろう。
 遷子のこうした句は、昭和三十年代半ば(三十四〜三十六年)に集中的に詠まれた後ほとんど見かけなくなるが、それでもベトナム戦争の終結や所謂プラハの春へのソ連軍事介入などの折に触れ、間歇的に詠まれている。蓋し、そうした事件を見聞する都度、遷子のヒューマニズムが揺さぶられたのだろう。

(五) 自己の凝視

 こうした社会に関心を拡げた句が影を潜めるのに代わって増えていくのが、己の人生を凝視した句である。

  頭を振れどつひに五十の秋の雲      『雪嶺』
  わが生や夜も雪山に圍繞され
  悴かめるこの一瞬もわれの生
  寒卵わが壮年期陥没し
  銀漢や二十年前一兵士
  年々に元日淡くなりまさる
  餠食ふや貧しき過去を身にまとひ
  暑き夜や夢見つゝ夢作りつゝ        『山河』
  大雪のわが掻きし道人通る
  かなり倖せかなり不幸に花八ツ手
  雪晴れし山河の中に黒きわれ

 とりわけ、八句目は表面的には単に雪掻きの光景を詠んだものと見えようが、むしろ自分の行為や存在が他者に役立っていることに満足を覚えている遷子自身を象徴しているものと読みたい。
 そして目に引くのは、自身への厳しい戒めを詠んだ句である。

  秋風よ人に媚びたるわが言よ       『雪嶺』
  怠りの一週過ぎぬ柳の芽
  百合の香と小過失吾を眠らせず
  行秋やなさねばならぬ惡ひとつ
  年老いて賢くならず鳥雲に
  罪のごとし囀る鳥の名知らぬは      『山河』

 冷徹なまでの自己抑制と言ってもいい。一人の人間の、真摯な生き様が浮かぶ。
 また、昭和四十年頃より、自身の老いを意識した句が増え始める。この年、遷子五十八歳。還暦を前に自身の老いを意識し始めたのだろうか。

  日燒して痩身老いをしるくせり       『雪嶺』
  木の葉髪目にうかぶ友みな若き
  秋深し還暦過ぎて老後の計
  寒暖計よりも寒さに聡くして        『山河』
  老醜の夢はまことか朝ざくら
  花冷えて若者の歌胸に沁む
  わが老いを瞑りて見る冷ややかに
  心老いて梅待つ心老いざるを

 さらに、老いの先にある、死を意識した句も詠まれている。

  春の服買ふや餘命を意識して       『雪嶺』
  桐の花人死す前もその後も        『山河』
  薫風に人死す忘れらるゝため
  人の死に心動かず秋風に
  とみに夜が怖しきわが冬の齢

 一句目、なんと遷子五十歳の時に詠まれている。自身の生がそう長いものでないことを意識していたのだろうか。
 そうなる原因として考えられるのは、己の健康への不安である。若い時に二度(出征中と終戦直後の函館勤務時代)発病し、病気療養を余儀なくされた遷子には、自身の健康不安を詠んだ句も散見される。

  蟲鳴くやわが半生の不眠症        『山國』
  梅咲くや家人に告げぬわが病
  秋深し病弱つひに五十年         『雪嶺』
  寒うらら危機感はわが胃のみに
  木の葉髪痩身いづくまで痩する

 一方、こうした自己抑制と表裏を成すように、他者へ注ぐ眼差しは暖かい。

  歴史には残らぬ男薫風に        『山河』
  引いて悲しき日陰の草の根無草
  燕来て巣作る日なり吉き日なり
  鳴く虫の命を切に思ふ夜ぞ
  老いて病む人に着せたり新浴衣
  峡の子の数淋しさよ流し雛
  雛の眼のいづこを見つゝ流さるゝ

 かかる遷子の人柄から、周囲の句友や後輩達も黙って見ていることができなかったのだろう。星眠・民郎との交流については前述したが、それ以外にも遷子の句集は、本人の出版意欲が乏しいなか、これを見かねた周囲の誰彼が編集や事務などの作業を引き受けて日の目を見たものである。例えば「草枕」は前述の齋藤玄が、「山國」は当時馬醉木の後輩だった藤田湘子が、「雪嶺」は鶴の矢島渚男が、最後の「山河」は渚男に加え星眠、福永耕二がそれぞれ出版に骨を折ったという。かくまで周囲や後輩に慕われる作家が他にいただろうか。


  四. 晩年の病床作品  滅びゆく心身を凝視して  

 以上見てきたように遷子は時代の経過とともに、その対象・テーマを変え、句風も大いに変遷したが、叙情の深化はやむことがなかった。ところが、昭和四十九年に胃癌を発症し、以降は手術、入退院を余儀なくされ、ついに昭和五十一年に不帰の客となった。発症からその死までおよそ二年。困難な環境下で、遷子は句を作り続けた。どの句も生死のぎりぎりの狭間で詠まれたものである。まるで、それまでの句業の集大成を図るかのように、死の寸前まで冷静に己を凝視し、句の透徹度を増していった。それらの句を振り返ってみたい。

  春一番狂へりわが胃また狂ふ      『山河』
  わが山河まだ見尽くさず花辛夷
  癌病めばもの見ゆる筈夕がすみ
  遺書書けば遠ざかる死や朝がすみ
  再会す残雪浅間近立つに
  衰へて山河まぶしき春の昼
  寝がへれば身は薄片ぞ春の闇
  初花やひと度は死を遠ざけて
  許されし余生いくばく木々青む

 こうして、一度は手術が成功し、小康を得た。 

  行く春や荏苒として回復期        『山河』
  田を植うる山河の命疑わず
  葭切や午前むなしく午後むなし
  遺書いまだ裂かず直さず秋深む
  枯山を出て朽野に憩ふなり
  暁光におのれ削ぎ立つ雪の嶺
  亡き父にさも似て歩む雪の道
  牡丹散りまた散り時計二時を打つ

 しかし病魔は去らず、再度遷子を襲う。

         
肝炎再発
  夏蜜柑肝臓燃ゆる口に合ふ       『山河』
  死病とは思ひ思はず夏深む
  口軽く病を語る百日紅
  病みて見るこの世美し露涼し
  冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな
  夏痩せにあらざる痩せをかなしみぬ
  露の身といしくも古人言ひにけり
  来年は遠しと思ふいなびかり
  百舌ひゞく脂ほとほと失せし身に
  草の花悔い多かりし生ながら
  病みて恋ふ花野はいよゝ遥かなり
  うそ寒く閉づる朝刊同病死
  散るまゝに吹かるゝまゝに庭落葉
  冷まじやなべて余命に制さるゝ
  霜つよし一縷の望みまだ捨てず
  木の葉散るわが生涯に何為せし

 このように、病状は着実に進んでいった。そうした過程を一番よく解していたのは医者でもある遷子本人だったろう。

  春暁と思ひ寝ざりし医師と思ふ      『山河』
  病理所見言はねば聞かず花の雨
  わが病わが診て重し梅雨の薔薇
  梅雨深し余命は医書にあきらかに
  闘病の余生必せり新浴衣
  わが予後を小春の妻に告ぐべきか

 冷厳な医師の眼をもって、己が病状を診断する遷子。痛切な句が並ぶ。
 そして、ついに再入院。

  遺書書くや入院前夜しぐれつゝ      『山河』
  入院す霜のわが家を飽かず見て
  冬青空母より先に逝かんとは
  冬青空このまゝ死なば安からむ
  雪嶺よ日をもて測るわが生よ
  あきらめし命なほ惜し冬茜
  死の床に死病を学ぶ師走かな
  死は深き睡りと思ふ夜木枯
  冬麗の微塵となりて去らんとす
  わが山河いまひたすらに枯れゆくか
  心揺れ易し雪雲の乱れにも
  蒼天下冬咲く花は佐久になし
  霜天に小爪消えたる手をかざす

 死と対峙しながら詠み続けた、すさまじいまでに清冽な句である。今、こうして読むだけでも胸が詰まる。とりわけ、九句目は心揺さぶられる絶唱である。
 遷子はこれを毎月馬醉木に投句し続けた。福永耕二は言う。

   (これらの)作品を毎月「馬醉木」で読みながら、息苦しい思いに捉われたのは僕だけではなかっただろう。こんな状況の中にあってよく俳句が詠めるものだと思ったし、俳句とはなんと業の深い文芸だろうと思った。(「俳句は姿勢」より)。

 これらの句を詠んで間もない昭和五十一年一月、遷子は逝った。

  師恩友情妻子の情冬ふかむ      『山河』
    
われにその価値ありや
  かく多き人の情に泣く師走

の句を残して。


  五. 遷子俳句の本質

 以上、駆け足ながら、遷子の句業のあらましと主要な作品に触れてきた。
 冒頭に述べたように、遷子の作風は時代とともに幾度も大きく変遷を重ねてきた。馬醉木直系の純粋自然賛歌から鶴流の境涯俳句、さらには社会性俳句と思える句まで、その多様性には驚かされる。しかも、それらの変遷は、どれも決して奇を衒ったり、流行を追ったりしたものではない。真摯に生き、己が正しいと信ずるところに遵って句を詠んだ結果である。だから、遷子本人にすれば、初学の頃から晩年まで自分の句は何も変わっていないと言うかもしれない。
 では、その遷子俳句に通底する本質とは何だったのか。ここでは、その全人格を傾けたヒューマニズムだと言いたい。郷土の自然やそこで暮らす人々に愛情を注ぎ、家族を慈しみ、弱いものや苦しんでいる者の力になりたいという暖かな人間性。そして、戦争や理不尽な権力者を憎む正義感。さらには徹底した自己抑制。これらは、すべて遷子が詠み続けたテーマである。遷子の生き方が、そのまま彼の作品だったのである。
 福永耕二は、先に上げた文中でこうも言う。

  「俳句は姿勢だ、と僕は考える。俳句はそれを生きて行ずる人の姿勢である。」

 至言であろう。そして、遷子の作品についてこう述べる。

  「俳句は遷子の生活を覆いつくし、全人的な人間性の発露となっていたことを肯わぬわけにはいかない。肉体は亡んでもその精神は、俳句の中にいまなお脈々と流れつづけているのである。」


     [注]筑紫磐井氏には貴重なる参考資料の提供を賜った。記して感謝の意を表したい。