十人十色2017年6月

 

雪形や口伝の多き峡の村★佐藤 博子  

高い山々の雪が春になって解け、その残雪と山肌が描く様々の模様が生じる。その形によって、その年の農作物が豊作か凶作かを占ったり、農作業の時期を判断したりする。従って雪形にはその土地土地に応じた口伝があるのである。白馬岳の代搔き馬は有名である。また種まき爺さんの雪形が生じるのでその山に爺ヶ岳(北アルプス)と名が付けられている。雪の深い峡の村では特に雪形について口伝が多いのである。あの雪形が出たから今年は水が不足するかもしれない。準備しておけとか、多くの口伝に従って村人たちが話し合う姿が見えて来るようである。峡の村の早春の様子が生き生きと感じられる句である。

虎落笛吹き出す伊吹颪かな★黒野希志子  

原句は「伊吹颪虎落笛を吹き出せり」である。これでも面白い力のある句である。しかし六、六、五音で少々語呂が悪い。そこで右のようにしてみた。これでも中七のところが伊吹で切れ、下五は句またがりになるが、読みやすくなったと思う。冬の烈風が吹いて来たと思っていると、虎落笛が鳴り出した。それは伊吹山から吹き出して来るのであった。山神が息を吹くと山頂に雲が生れるというので伊吹山と呼ばれる。日本武尊ですらこの山神にたたられ敗退したという。その厳しい山からの颪が虎落笛だと思った発想が佳い。若々しい句である。希志子さんは九十四歳でお元気である。更にこのように若々しい句を沢山お作り下さい。

大草鞋吊り村人の鬼やらふ★福岡ツネ子  

追儺は中国の風習であった。宮中の大晦日の夜、悪鬼を追い払い、疫病を防ぐ儀式となった。そして近世に、民間では節分の鬼やらいになった。鬼やらいや節分には地方ごと様々の行事が行われる。例えば寺社で年男が豆を撒くだけとか、豆を撒いて鬼を追い払うとか。この句では大きな草鞋を吊って鬼やらいをしている光景が描かれている。大草鞋を鬼が恐がって逃げたというような伝説があるのであろう。大草鞋の下で村人たちが鬼やらいを楽しんでいる様子が浮んで来る。楽しい句である。

春風や家中駆けてランドセル★前定やよい

春風が吹いて来た。いよいよ四月入学式が来る。そして学校へ通う。そのため新しいランドセルを買ってもらったのである。入学児がそのランドセルを背負うのが嬉しくてたまらない。ランドセルを背負ったまま家中を駆け廻っているのである。その部屋にも春風が吹き込んでくる。ますます子どもは喜ぶのである。始めてランドセルをもらった子どもの喜びがよく描かれている。明るい楽しい句である。ランドセルを背負って喜んでいる子どもの将来を祈りたい。


シュメールの円筒印章うららけし★武井 悦子  

シュメールは言うまでもなく、古代メソポタミアの南部地方(現イラク南部)で盛え、世界最古文明の一つが起った地方であり、その民族である。紀元前三〇〇〇年頃から都市国家を建てた。またその頃楔形文字を発明した。この文字はバビロニアやアッシリア、更にその後の紀元前数世紀まで用いられていた。また円筒形の印章も発明した。この円筒印章は貝殻や石で作られ、神話の英雄と野獣の戦や幾何学的な文様などが刻まれている。この円筒印章を粘土板の上で回転させ、その模様を粘土板に写したと思われる。魔術的意味があって護符として用いられたとも言われる。何のために作られたのかとか、模様が何を意味しているのかと、想像することが楽しい。ロマンのある句である。

月朧波音ひびく島の路地★浅井 貞郎    

小さな島である。どの路地へ入っても波音が響いて来る。その路地の一つを歩いていると、朧月が上って来たのである。そこに波音も響いて来る。昼間は漁業などで賑わっていた島も、朧月が浮ぶ夜になるとすっかり静かになり、波音がより一層大きく聞こえるようになるのである。そのような島の静かな光景を佳く描写している句である。   

春うらら尋ね猫へのお礼状★小林ひろえ    

実にほほ笑ましい明るい句である。家を出たまま何日も帰って来ない猫、家中で可愛がっている猫である。電柱などあちらこちらに尋ね猫の広告を張り出したのであった。その猫の特徴を書き、多分写真も入れて、もしこのような猫を見つけた人がいたら知らせて下さいと書いた紙を張ったのである。その紙が無くなったと思っていたら、今度はおかげで猫が見つかりましたと御礼状が張ってあったのであった。うららかな春にふさわしい楽しい俳句である。

生き生きと走る魚道雪解水★脇本 眞樹    

魚道とは魚群が通る道筋である。河川の途中の滝やダムなど魚の遡上が難しいところには人工的な水路・魚道が作られることもある。春になって上流から雪解水がとうとうと流れて来る。しかし魚たちは生き生きと元気よく、泳ぎなれている魚道を遡って行くのである。魚道を雪解水が流れ落ちる勢いが春の到来を告げているようである。そのような光景を写生したところが佳い。力強い句である。   


覆轍は踏まず佚老青き踏む★浜田 孫一    

覆轍はくつがえった車の轍である。それは前人の失敗の跡である。それを踏まないよう心掛けているのである。佚老(イツロウ)は世俗をのがれた老人である。古来文人には世を遁れ山中などに隠れ棲む人が多かった。田園まさに荒れなんとすと故郷へ戻った陶淵明はその一人である。佚老はそのような老人を意味している。なまじもう一頑張りしようと世にとどまり、つまらない失敗にくよくよしてはならないと、心おだやかな佚老の日々を送っている。しかし春が来て青々と萌え出た草の上を歩く喜びは、佚老にとっても実に嬉しいことであると詠ったところが佳い。佚老に幸あれ。

計らずも詣づ彼岸の白馬寺★前川美千代  

「計らずも」に思い掛けなくという意がある。思い掛けなく詣でた白馬寺となると、中国洛陽市にある白馬寺であろう。後漢の明帝が西暦一世紀初め、中国初めての寺として建て、中インドから迦葉摩騰(カショウマトウ)や竺法蘭(ジクホウラン)を招いて、仏教経典を訳させたところである。私が初めて訪ねたのは二十年前ぐらいであったか、牡丹が美しく咲いていた記憶がある。美千代さんがこの寺を詣でたのが、丁度彼岸であったのである。「計らずも」には、白馬寺に詣でたのが偶然彼岸だったという軽い驚きも含まれている。美しい歴史のある白馬寺の姿が浮んで来る明るい句であるところが佳い。