十人十色2017年7月

 

縄文の土器の色して蜥蜴出づ★劉  国勇

古代の人々が作ったものを見て心がはずむのは、人間共通のものである。私は中国殷の時代(前一六世紀~前一〇二三年)の青銅器が大好きである。そして少々時代は後ではあるが、日本の縄文時代(前一〇世紀~前四世紀)の素朴な土器も良いと思う。国勇さんも同じような思いを持っておられるのである。長い冬が終って冬眠から目醒めて蜥蜴が出て来た。愈々春だと心を弾ませて蜥蜴を見ると、何と美しい力強い色をしている。これはあの縄文の土器の色だと思ったのである。この句は何と言っても春になって出て来た蜥蜴の色が縄文の土器の色だということを発見したところにある。啓蟄の蜥蜴の美しさを、縄文という力のある時代の色に結びつけたところが素晴らしい。

 

惜しみなく日のふりそそぎ山笑ふ★国島 輝夫

北宋の画家郭熙(カクキ)は字を淳夫といい、中国河陽温県の人である。神宗の時代に宮殿の壁画を画いたことで有名である。画論「林泉高致集」を書いた。そこで三遠という画法を主張した。山の麓から山頂を見上げるのを高遠、前の山から後山を眺めるのを平遠、近くの谷の間から遠山を見るのを深遠とし、合せて三遠と呼ぶ。その三遠は中国の山水画で画面を構成する原理とされた。この「林泉高致」の一節に「春山澹冶(たんや)にして笑ふが如し。冬山慘淡として眠るが如し。」と書かれている。ここから山笑う(春)と山眠る(冬)という季語が生れた。どちらの季語も多くの俳人に愛用されている。この句では日の光が惜しみなくふりそそぐところが、春の山が大いに笑っているようで佳い。

 

日本語のきれいな神父復活祭★佐野 佳代  

キリスト教でも神父といえばカトリックの司祭をいう。カトリックの司祭たちは十六世紀の頃から盛んに、日本へ布教のため渡って来た。江戸時代の長いキリスト教禁教の年月を経た今日も、布教のため多くの外国人神父が日本へやって来る。春分のあとの満月に続く日曜日に行われる復活祭は、イエス・キリストの復活を祝うキリスト教最大の祝日である。その復活祭で祈りを捧げる中心の神父が、日本語がまことにきれいな外国人の神父であるところが、カトリックの復活祭らしくて佳い。

ノグチゲラ飛んで山原風光る★垣花 東洲 

山原はヤンバラと読む。沖縄本島の北部一帯を呼ぶ。そこには天然記念物のヤンバル・クイナ(山原水鶏)を初め珍しい動物が住んでいる。ノグチゲラ(野口啄木鳥)も山原にのみ生息している。これも特別天然記念物である。その野口啄木鳥が山原の林の中を飛んでいる姿を発見したところが佳い。なかなか見られない光景を見事に捕えたところが好運である。その山原も一面春となり風が光っていたのである。沖縄の、特に山原の山の美しい春の光景をノグチゲラの飛んでいる姿で描いたところが優れている。

 

清明に雨眺めゐる杜牧かな★劉  新萍 

清明は春分後十五日目、二十四節気の一つである。中国ではその頃先祖の墓参りをする。その風習が琉球に伝わり清明(シーミー)祭となった。杜牧と言えば、「江南春絶句」を思い出す人は多いであろう。「千里鶯啼緑映紅(千里鶯啼いて緑紅に映ず)」で始まる七言絶句である。その杜牧の詩に「清明」題する七言絶句がある。その詩は「清明時節雨紛紛 路上行人欲断魂 借問酒家何処有 牧童遥指杏花村(清明の時節に雨紛紛 路上の行人悲しまんと欲す 酒家は何処に有りやと問う牧童遥かに杏花村を指す)」である。新萍さんは清明の時節の雨を眺めながら、杜牧がこの詩を作った時のことを思い浮べているのである。杜牧は四十二歳の時池州の刺史となった。安徽省の南部長江の右岸の町である。杜牧の詩の叙情性がこの句にもあり、優れた句が生れたのである。

 

山羊の子のかひば桶より白詰草★斎川 玲奈 

山羊の子の飼葉桶であるから、何かやわらかい草であろうと、桶の中を覗いたのである。そうしたら白詰草であった。白詰草はクローバーと呼ばれ苜蓿(うまごやし)、馬肥とも呼ばれることもある。牧草としてよく用いられる。江戸時代オランダ人がガラス製品を送る時、割れないようにクローバーの干し草をつめたので、白詰草と呼ばれるようになったとの事である。クローバーであれば山羊、特に子山羊の餌としてうってつけである。子山羊には白詰草がふさわしい。優しい光景が佳く描かれている。

 

メフィストに逢ふかも知れぬ花の闇★藤本 絢子  

十六~十七世紀頃のドイツではファウスト伝説が流布していた。ファウスト博士という錬金術師が実在したという。そのファウストが医師魔術師として活躍するのがファウスト伝説である。ファウストは神にそむいて、悪魔メフィストフェレスに魂を売る契約をした。その結果メフィストフェレスの助力で、さまざまな冒険を楽しみ享楽生活を送ったが、契約が切れた時に死んだという。この伝説に基づいてゲーテが名作『ファウスト』を書いたのである。花の闇の中を歩いていて、ふと悪魔メフィストフェレスが出て来るかもしれないと想像したところが面白い。花の闇らしい雰囲気が佳く出ている。

 

下見して藁入れ替へし古巣かな★青木  玲    

雀や烏などでもよいが、私は燕ではないかと思う。春になり燕が古巣へ戻って来たと思って見ていると、燕は下見に来たようで、飛び去って行った。そして少し時間がたって藁をくわえて古巣へ又戻って来たのである。そのように古巣に出入りを繰返して、藁を入れ替えて新しい巣のように作りかえたのであった。鳥の巣作りを見ていることは楽しいが、古巣の藁を一所懸命入れ替える燕の熱心な働きを見ていると、一層たのもしく感じるのである。この句で古巣を下見して藁を入れ替えたところを具象的に生き生きと描いたところが佳い。

 

うららかや児のリュックから棒つ切れ★前定やよい     

幼児のリュックサックにはいろいろな物が入っているに違いない。幼児にとっての宝物が大切にしまわれているのであろうと、興味を持ってリュックサックに入っているものを出してみたところ、棒っ切れが出て来たのである。大人の目で見るとつまらないものかもしれないが、幼児にとっては宝物なのである。なにかの理由があってこの棒っ切れが幼児にとって大切なのである。麗らかな春の日らしい明るい朗らかな句である。麗らかという季語が佳く働いている。

 

杏子の実かくも鈴生り孔子廟★谷口 清美   

孔子廟といえば楷の木を思い出す。孔子の故郷曲阜の孔子廟に植えられているからである。この句の孔子廟には杏の木があり、実がたわわに生っている。これも又孔子廟らしい。杏は中国原産の樹であり果実は美味である。その上種子から漢方生薬で鎮咳・去痰に効ある杏仁を作る。そのように人々にとって有用の杏子が鈴生りになっているところが、孔子廟らしいと言った理由である。民を思って生涯を送った孔子の廟にふさわしい光景が佳く描かれている