十人十色2020年11月

     迎へ火や孤独な闇に火を灯す★池西季詩夫  

  最愛の人も亡くなり毎日孤独な生活を送っている。今夜は盆の初日、その一人ぼっちの闇に火を灯せば、父や母そして最愛の人の魂も帰って来てくれるに違いないと思いながら迎え火を焚いたのである。普段は仕事などで忙しく充実した生活を送っていて、孤独を感じることもあまりないが、お盆で亡くなった人々のことを思い出すと、急に孤独感が強く湧いてきたのである。迎え火を焚くとき現世に残された人の気持ちを佳く描いている。

   グレゴリオ聖歌美し今朝の秋★森  幸子  

  グレゴリアン・チャントとかグレゴリオ聖歌と呼ばれるものは、ローマ・カトリック教会の典礼で用いられるラテン語の単旋律聖歌である。長崎辺りのカトリック教会でも歌われるのであろう。美しい旋律の聖歌である。長い夏も終って今朝は涼しい秋が感じられ、聖徒たちもほっとした気持ちがあるだけに、今朝の聖歌はより一層美しく感じられるのである。グレゴリオ聖歌に今朝の秋を感じる感性が若々しい。幸子さんは九十歳でもこのように若い感性を持っておられるので頼もしい。一層の御活躍を祈っている。

   鶴首に荒地野菊やみな卒寿★山下美津子  

  美津子さんも九十歳である。友人たちも皆卒寿。しかし皆気持ちが若い。皆で荒地野菊をつんでのびのびとした首、即ち鶴首に荒地野菊を活けて楽しんでいるのである。人生百年の時代、九十歳はまだまだこれからの気持ちがある。その前向きな気持ちで荒地野菊を活けて楽しんでいるのである。美津子さんもこのような若い気持ちで、一層活躍をして下さることを祈っている。

   竜淵に潜み跡取りを捜しけり★佐藤 武代  

  中国も後漢の時代から、竜は春分にして天に昇り、秋分にして淵に潜むと言われ出した。後漢は九四七年に立国、でも九五〇年には後周に滅ぼされた。それから千年も経っているから、竜といえども跡取りが欲しくなったに違いない。今年の秋には一頭の竜が淵に潜んで跡取りを捜しているのだと見たユーモアが佳い。面白い発想で作ったところが佳い。

   何処からこきりこ節や尾花風★有若 幸子  

  小切子は日本の古い楽器である。三十センチメートル程の竹棒二本を両手で持って打ち鳴らすのである。小切子を鳴らしながら踊るのが小切子踊で、富山県の五箇山地方では今でも行われる。小切子は神奈川県三浦三崎で正月十五日に行われるちやっきらこでも使われる。薄の穂は花が尾に似ているので尾花と呼ばれるが、野の一面に広がっている薄原に風が吹いている。そこへ何処からか小切子を打つ音が聞えて来るのである。五箇山の合掌造りの民家が遠くに見えて来るような光景が描かれているところが佳い。

   直ぐそばにいつものちちろ厠神★髙栁凡子 

  厠の横に祀る神を厠神と呼ぶ。便所をいつも清浄にしておこうとか、皆が御世話になるからとかいろいろな理由で祀られているのである。いかにも日本人の優しい気持ちの表れだと厠神を見る度私は感じるのである。西欧などを旅しても厠神のようなものを見た事はない。厠神の直ぐそばでいつも鳴いている蟋蟀が今日も鳴いているのを聞いてほっとしている様子が佳く感じられる句である。厠神といいちちろといい日本らしい風景であり、昔懐かしい光景である。

   蝨ゐる衣煮られたるなり敗戦忌★和泉 鮫人  

  DDTのような殺虫剤が無かった第二次世界大戦敗戦前の日本では蚤や蝨が沢山いた。軍人として戦争に行っていた人々も、戦地で蝨に困ったものである。そして蝨を退治するのに着物類を煮て洗ったのである。敗戦日にしみじみとその頃を思い出しているのである。もうこのようなことを体験した人々は少なくなった。戦争中の日々を思うと平和がいかに大切かが判る。この句はそのような思いを新たにさせてくれるところが佳い。

   亀の子や庭の石橋渡り初む★蛭田 秀法  

  庭には池があり、しかもそこには石橋がかかっている。池には亀が何匹か飼ってあるが、亀の子が生まれた。その子亀が育って行くのを見るのを楽しんでいるのである。ある日子亀が陸に出て遊んでいるなと思っていると、石橋をこわごわ渡り初めたのであった。ここまで子亀が育ったかと、その生命力と好奇心の強さに驚き喜んでいる作者の気持ちが佳く出ている句である。明るく朗らかな句である。

   とび入りの蟇に乱るる踊りの輪★橋本  綾  

  盆踊の光景である。人が増えて踊りの輪が大きくなったり、人が二、三人抜けて小さくなったりしている。その踊りの輪が突然乱れたのである。何事かと見たらば輪の中に蟇が入って来たのであった。人々は蟇をいじめないし、蟇が出て来ると喜んで餌などをやるので、蟇も人を恐がらず踊りの輪に飛び込んだのである。田園地方の盆踊の一光景が見事に描かれている。

   手花火も点けて独りの魂送り★白井さち子  

  御主人も亡くなり、親族の人々も別々に住み、特にコロナウイルス禍の日々であるので、お盆の最後の夜の魂送りも独りでしているのである。独りのことあり、又昔一家で楽しんだ手花火の事を思い出し、魂送りに手花火を点けて亡き人々を送っているのである。魂送りに手花火を点して亡き人々に話し掛けているような様子が描かれているところに、しみじみとした気持ちが現されていて佳い句になったと思う。
  
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