十人十色2022年7月 対馬康子選
法水を湖底へ攫ふ春の荒★ 井上 淳子
ひとの心の源底に存在するとされる真言の世界へ「身」「口」「意」という観点がある。そこからあみ出された「三密瑜伽行(さんみつゆがぎょう)」を三昧することにより、悟りのレベルを示す「住心」という、境界の高まりを目指すのが真言密教の基本的立場である。
空海の性霊集に「法水(ほっすい)」という言葉が現れるが、水のことではなく住心を高めてゆくことを、水で心体を清めることに例えているのである。
空海や西行が意味する「法」とは「存在」そのものの本質のことであり、人間も環境世界も含めたあらゆる「色」を存在させる根本の力のことである。
この作品は、春の嵐が法身に導かれ、天籟の風のように吹きすさび、深層意識として湖底に潜む法水を攫う壮大な心象風景を格調高く描いている。
琴をそのまま詠むのではなく琴の弦を張り替えるという具象性が活かされている。
中島斌雄の名句「雲秋意琴を売らんと横抱きに」がある。これは昭和二十七年、戦後の復興期の時代の作で、生活のために、男性が妻や娘の大切な琴を抱きかかえて町に出るという哀愁ある臨場感が、「雲秋意」という見事な季語の斡旋によって詠まれた名句である。
掲句は琴を手離すのではなく、次世代へもつなぐよう大切に持ち帰る。張り替えた琴の音はふたたび朧なる月夜に柔らかく響く。
北条時頼が三十歳で執権職を譲り、出家して得宗家として実質的に幕府を支配する制度を確立した。伝説では、出家した諸国を行脚し、<GAIJI no="03556"/>しい人々の生活実態を、身をもって体験し、情に厚く、鎌倉幕府に対する御家人達の忠誠心を確かめたとされる。しかし政治家としては様々修羅場を切り抜け、北条氏の支配を確立した人物といえる。
事実だけの描写の中に、源氏の滅亡、後鳥羽上皇との確執など長い冬を終えて、ここに示される春の風には新生への期待がこめられている。
うたびとの文字なき世より夜の桜★ 井口 俊司
古事記も万葉集も万葉仮名という、中国の文字を工夫した特殊な漢文体で書かれた。有馬先生は俳句の淵源を古事記の日本武尊の片歌に見た。古事記に現れるコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売)は、桜の女神を思わせる。また万葉集には桜がうたわれている。
古代の歌人達は「仮名」という歌人の文字を持っていなかったが、素晴らしい歌を作ってきた。万葉集も夜桜を詠んでおり、今も昔も文字を超えて世の桜の美しさは変わらぬものがある。夜の桜の幻想的な美しさを、文字のルーツへと遡って壮大に捉えている。
乗つ込みに遅れし鯉の背の光★ 岡崎志昴女
冬の間は川や湖の深い場所にいる鯉や鮒が、春になり産卵のために浅瀬にやってくることが「乗っ込み」である。葦などの水生植物が生えているところにまとまってやって来て、釣り人にはたまらない。
ここでは鯉の立場に立っている。すでに良い場所は、ほかの鯉に取られてしまったのであろうが、それでも必死に命をつなぐための場所を探そうとする姿が、水面から見える背びれに現れている。それが輝いているのは、それを見ている人の応援する心の反映とも言えよう。「遅れし」に発見があり、ものの見えたるひかりを言い留めた。
巻尺の巻き込まれゆく春愁★ 益永 涼子
春愁とは冬から春への様々な環境の変化の中で起こる愁いである。肉体的な面も、精神的な面も、これから冬を迎える中での秋の愁いとは異なるものが春愁にはある。これからの展開に期待が持てる中での愁いであり、予期せぬものともいえよう。その意味では限定的で取ってつけたように沸き起こることもあるが、深刻な鬱となってしまうこともある。春愁を経て五月病になる学生もいる。しかし作者は、あっさりとそれを克服してしまったようである。というよりもそうやって自らを鼓舞している。それを諧謔的にシュルシュルと「巻尺の巻き込まれ」るように消えてしまったと表現した。
透きとほる風を選びて雁帰る★ 金子 正治
渡り鳥は、生まれつき体内時計を持っていて、それで何千キロという長い距離を正しい方向へと迷わず移動できるのだという。ところが、渡り鳥が地球の磁場に基づいて方向を決めるのに、現代の地球上を飛び交う微弱な広帯域電磁波の影響が出ているという。帰るべき場所へ帰れない鳥たちはそのまま人間の姿でもある。
日本で冬を越した雁が翼を広げて、はるか遠い北方へ帰ってゆく群れの姿は哀れ深い。雁の本能によって透き通る風を選んで旅立つ。惑わされない雁の意思が心強い。
冴え返るNOWAR魚の目に泪★ 熊谷 幸子
「行春や鳥啼魚の目は泪」は知っての通り「おくのほそ道」矢立初めの句。芭蕉は、本来泣くことはない鳥を泣かせ、涙を流すはずのない魚も泣かせ、そうした自然のものたちも過ぎ行く春を惜しんでいるのだと、そこに別れの情を切り取った。「おくのほそ道」は何度も推敲と訂正を重ねて、芭蕉は完成までに五年の歳月を費やしている。そして世に出版されたのは芭蕉が亡くなって後のことである。
どの国のどんな戦争もあってはならない。作者は、遠いみちのくへ命を懸けて臨んだ芭蕉の旅に思いを馳せながら、「NOWAR」という言葉を噛みしめる。
綾取りの川面に消ゆる花一片★ 三好万記子
綾取りを始め、ままごと、缶蹴り、花いちもんめ、お手玉、かくれんぼ、縄跳びなど昔ながらの子供の遊びは俳句によく登場する。その意味で掲句も素材においての新しさはないと言える。それでありながら私がこの句に惹かれたのは、美しく融け合っている虚と実の景に、得も言われぬ人生の哀感を感じたからである。
ここでは綾取りの毛糸の色は赤であろう。一人遊びの赤い川面にひとひらの桜の花びらが落ち、見えない水の流れに運ばれ消えてゆく。人のいのちの行方のように。
変換に暴走の誤字目借時★ 藤域 元
蛙が人の目を借りてゆくから春は眠くてたまらない。コンピューターといえども、生きているように「暴走」をして、とんでもない文字に変換していると捉えた。パソコンも作者の認識と経験に基づき、一所懸命ワードの頻度を学習している。ところが眠気まなこで打ったり、新しい言葉を探したりすると、思わず笑ってしまうような文字が並んで、あわてて打ち直すことになる。
「蛙の目借時」という伝統的な季語との取り合わせが効いている。深刻ではないが、日常のそういう問題も昔の俳句の風景にはなかったこと。現代のユーモアがある。
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