十人十色2022年8月 日原 傅選
長江に少年の櫂薄暑来ぬ ☆宮代 麻子
長江は中国最長の河川であり、全長はおよそ六千三百キロメートルに及ぶ。みなもとは青海省のチベット高原に発し、途中で岷江(びんこう)、嘉陵江、湘江、漢水といった支流を合わせて東シナ海に注いでいる。その広大な長江に小舟を浮かべ、櫂を操る少年。漁をしているのであろうか。あるいは、荷物の運搬を仕事としているのかもしれない。大景のなかの小さな人間の営みに焦点を当てた大小の対比が面白い。これから本格的な夏を迎える前の光景。ちなみに「中国三大火炉(かまど)」と呼ばれ、昔から夏の暑さで知られる重慶・武漢・南京の三つの都市はいずれも長江沿いに位置している。
なお、近年の長江では漁獲量が激減していることが問題になっている。その原因としては、三峡ダムをはじめとする巨大ダムの建設、水域の環境汚染、乱獲などが挙げられている。中国政府は二〇二一年一月一日から十年間、長江での禁漁措置を実施している。その結果、流域で働く約三十万人の漁師が失業するのだという報道がなされた。
貝塚の厚き貝層鳥雲に ☆小栗百り子
貝塚が発掘され、その断層面が見えるような展示がなされているのであろう。堆積して層をなす貝の厚みに作者は驚いたのである。縄文時代の人々の生活のありさまが間近に感じられる光景と言えよう。その時代から現代に至るまで渡り鳥は秋になると日本列島に飛来し、春にはまた北地に帰ってゆく行動を毎年続けていたはずである。掲句における「鳥雲に」という季語は、繰り返される自然界の営みとそれをつつみこむ悠久の時の流れを想起させるかたちで働いている。
ままごとの皿やはらかき柿若葉 ☆安倍 雄代
若葉から青葉、そして紅葉へと、柿の葉は大きくその姿を変える。厚みと光沢が特徴的な青葉、いろいろな色が加わる紅葉もよいが、萌黄色をしたまだ柔らかなその若葉を好む人も多かろう。柿若葉には他の若葉と混在するなかでも目を引く美しさがある。その柿若葉がままごとの皿として選ばれたのである。<まゝ事の飯もおさいも土筆かな 星野立子>の「土筆」と同じく、ままごとの素材として使われた季語が力を発揮した作と言えよう。
篝火に鵜舟の舳先打ち揃ふ ☆土井 妙子
舟を使った鵜飼は岐阜の長良川のものが有名である。作者は滋賀の人であるから、隣県の長良川の鵜飼を見に行かれたのかもしれない。その長良川の鵜飼では、最後に鵜舟が横一列になって川面を下り、一斉に鮎を浅瀬に追い込む「総がらみ」ということが行なわれる。掲句はそれを詠んだものであろうか。「舳先打ち揃ふ」というところは、一斉に動き出す直前の気息を感じさせる。篝火に照らされた幾艘もの鵜舟が、息を合わせて動き出すさまはさぞ見事なことであろう。
太陽を必ず描く子風光る ☆大谷さくら
子どもの描く太陽の色は国によって違いがあるという話を聞いたことがある。クレヨンなど決まった色で描く場合、赤や黄色、オレンジなどが選ばれることが予想されるが、世界的には黄色が主流のようである。ただ、赤道近くの国の子どもは赤い太陽を描く傾向があるようだ。そのなかにあって、日本の子どもも赤い太陽を描く子が多いという。
掲句に登場する子は絵を描かせると必ず太陽を描くのだという。同じような絵を繰り返し描き、飽きない子。確かにある年代の子どもにはそのような傾向が見られる。それを作者は微笑ましく見つめているのである。さて、当の子は太陽を何色に描いたのであろうか。
花の昼郵便局へ僧一人 ☆神田 弘子
<炎天より僧ひとり乗り岐阜羽島 森澄雄>という句がある。澄雄句の僧については、「炎天」という季語、新幹線のホームという場所の設定から、暑に耐え威儀を正した姿、あるいはあまりの暑さに難儀してしきりに汗拭いを使う姿などが想像されてくる。一方、掲句の場合は、庶民的な親しい僧の姿が想像される。「花の昼」という春の季語、「郵便局」という身近な場所の設定の働きであろう。面白いところである。
雨意の風空見上げつつ菊根分 ☆大屋 郁女
「菊根分」は春の季語。春先に古株から萌えだした芽を細根の付いた状態で一つずつ切り離して植える作業。株を若返らせ、立派な花を咲かせるのが目的だという。「菊根分」は江戸時代にすでに季語として登録されている。歳時記の例句に<根分けして菊に拙き木札かな 一茶>の句が見える。掲句は、吹く風の様子から雨になるかも知れないと時折空を仰ぎながら菊根分の作業を続けているというのである。土に親しむ作者の姿が見えてくる。
清明や神馬嘶く杜の朝 ☆中澤マリ子
「清明」は二十四節気の一つ。新暦では四月五日ごろになる。寒くもなく暑くもなく、快い時節である。掲句に詠まれた神馬を飼育する神社は大きな森に包まれていることであろう。その森のなかに神馬の朝のいななきが伝わってゆく。林立する巨大な神木につつまれた清新な朝の大気が感じられる気持ちのよい句である。
ほととぎす朝靄深き神学校 ☆迫田みえこ
「神学校」は神父や牧師といったキリスト教会の指導者を養成する学校をいうのであろう。その神学校が深い朝靄のなかにひっそりと立っている。その地で「ほととぎす」の声を耳にしたというのである。ホトトギスは夏の季語。和歌の時代にすでに夏を代表する重要な詠題であった。それを継承して<野を横に馬牽き向けよほととぎす 芭蕉><ほととぎす平安城を筋違に 蕪村><うす墨を流した空や時鳥 一茶>と江戸時代の発句にも盛んに詠まれている。一方、中国ではホトトギスは春の鳥という位置づけである。蜀の望帝の魂が死後化してホトトギスとなったという伝説があり、ホトトギスの声は悲しいもの、別離の悲しみをかきたてるものとして詠じられることが多い。唐の竇常(とうじょう)の「杏山館にて子規を聴く」詩に「楚塞の余春 聴くこと漸(ようやく)稀なり/断猿今夕霑衣(てんい)を譲る」という句があり、晩春になってホトトギスの声を聞くことが少なくなったこと、その声は「断猿(子を奪われた悲しみのため腸が断ち切れた猿)」の哭き声よりも更に悲愴な感じのすることが詠み込まれている。掲句は「ほととぎす」と「神学校」との出会いに意外性がある。
抱き人形春泥にある戦地かな ☆津本由紀子
ロシアのウクライナ侵攻を詠んだ時事俳句と思われるが、「戦争」をテーマとしたもっと一般的な広がりをもった句として読むこともできよう。小さな子どもが四六時中抱えていた人形が戦地の春泥のなかに置き去りにされている。人形を抱いていた子どもやその保護者は何処に行ってしまったのであろうか。「人形」と「春泥」だけを読み手の前に提示し、後は読み手の想像に任せるかたちをとって、事態の異常さ、戦争の悲惨さを伝える句になっている。
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