十人十色2024年4月 日原 傳選
倒木の上に倒木冬の水 喜多村純子
周囲を木立の取り囲む湖畔。長い歳月を経て大きく育った樹がいつしか老木となり、嵐などに遭って倒れる。時を隔て、また別の樹が倒れ、たまたまもとあった倒木に交叉するような姿で覆い被さる。上五中七の措辞を読んで、そのような光景を思い浮かべた。倒木の一部は湖面に迫り出しているのかもしれない。「冬の水」を詠んだ名句として「冬の水一枝の影も欺かず 中村草田男」という人口に膾炙する句があるが、掲句の「冬の水」も清冽なイメージを湛え、どっしりと据わっている。最後に登場する「冬の水」によって、一句の静謐な世界が完結する。季語の働いた句である。
支援地の泥のまま馳す出初式 井上 淳子
今年の一月一日に発生した能登半島地震に関連する作であろう。被災地の支援のために消防車・救急車などの緊急車両が出動したのである。出初式は正月六日に行なわれる地方が多い。被災地での支援活動に一区切りがつき、本拠地に戻って出初式に参加するのである。しかし、被災地での活動で車体に付いた泥を洗い流す余裕もなく、泥の付いたままの姿で式に参加しているというのである。地震の影響で当地の用水の使用も制限されているのかもしれない。例年とは違う出初式の様子に見ている人も感慨をいだいたことであろう。
子のセーター同時に仕上がるやうに編む 胡桃 文子
歳の近い子どものセーターを編んでいるのであろう。一人のセーターが先に出来あがり、それを着て喜ぶ姿を見ると、別の子は淋しく思うのではないかと思いをめぐらすのである。そうしないために、最終的に同時に仕上がるように代わる代わる編み進めてゆくというのであろう。出来上がったセーターを手渡された時の子の笑顔、セーターを着た子の姿などを想像して編棒を動かす作者の姿が想像される。やさしい心のこもった句である。
名を呼ばれ返す一瞥炬燵猫 赤池 弘昭
猫は寒いのが苦手。炬燵があれば、上に登ったり、中にもぐりこんだりしている。「炬燵猫」という俳人好みの季語が成立する所以である。その「炬燵猫」と遊ぼうとして猫の名を呼んだのであるが、猫の方は全然反応を示さない。今の状態が心地よく、人間の相手などしたくないのであろう。呼びかけた人の方をちらっと見るだけで動こうともしないというのである。「返す一瞥」という表現がそのあたりの状況をよく示している。「一瞥」という言葉は蘇軾や范成大の詩に用例が見られる立派な漢語。それを猫の動作に用いたことで滑稽味のある句となった。
首里織の諸取切や初仕事 村雨 遊
琉球王朝の首都であった首里では、貴族や士族のための衣裳として格調の高い優美な織物が織られてきたという。「首里織」と総称されるが、その技法により「花織」「花倉織」「道屯織」「首里絣」「花織手巾」「煮綛(ニーガシー)芭蕉布」などに分かれるようだ。掲句の「諸取切(ムルドゥッチリ)」は「首里絣」の代表的なもので、首里絣には外に「手縞(ティシマ)」「綾の中(アヤヌナーカー)」といったものもあるらしい。正月を迎えたのちはじめて織機の前に坐る。思いを新たに作業に取りかかるのである。ルビに示された「むるどぅっちり」という音が面白く、どんな模様、どんな色彩のものが生み出されるのか読み手の興趣を誘う。
凍星や地震に崩れし千枚田 岡部 博行
能登半島地震を詠んだ句であろう。石川県輪島市
猩猩のことさら朱き屠蘇の盃 田中 梓
正月の祝膳で屠蘇を酌む。屠蘇を注ぐ盃もそれなりのものを用意するのであろう。その盃には猩猩の絵が描かれていた。その猩猩の色の朱さに作者は目を奪われたのである。「猩猩」は伝説上の生き物。古くは『礼記』曲礼上に「猩猩能言、不離禽獣(猩猩は能く言へども、禽獣を離れず)」とあり、獣であるけれども人間のことばを話すことができるという。中国古代の地理書である『山海経』海内南経には「如豕而人面(
待ち合はす浅草寺裏薬喰ひ 長岡 ふみ
「薬喰ひ」は冬の季語。広義には寒中に滋養になるものを食べることも言うが、一般には鹿や猪など野生の獣肉を食べることを言うことが多い。江戸時代中期の俳諧歳時記『滑稽雑談』には「肉類おほよそ冬月に至りて服食し、方薬に用ふる。雑なり。故に和俗、寒に入りて三日・七日、あるいは三十日が間、その功用に応じて、鹿・猪・兎・牛等の肉を食ふ。是を薬喰と称するなり」とある。浅草寺は雷門や仲見世が有名であり、そのあたりには名の知られた飲食店もたくさんあるが、裏手にも通のみの知るような店がある。待ち合わせ場所として浅草寺裏を指定するあたり、浅草を知り尽くした感じが出ている。
不老不死など口癖に薬喰 橋本 綾
この句も薬喰の作。一緒に薬喰をする仲間のなかに養生のためどころか、「不老不死」を熱心に説く人がいるというのである。「不老不死」というと、秦の始皇帝の命を受け、不老不死の薬草を求めて船出した方士徐市(徐福)が思い浮かぶ。 東海に浮かぶ仙人の棲む蓬莱山を目指し、童男童女数千人を連れて船出したきり帰らなかったその話は司馬遷の『史記』秦始皇本紀や淮南衡山列伝に見える。そのような話をしながら、盛んに薬喰の箸を動かしているのであろう。話が大きいだけに滑稽感のそなわる句となった。
ガタガタとボンネットバスの旅始 浦宗 禎子
「ボンネットバス」は運転席の前方部にエンジンを設けた構造のバス。評者が子どものころはよく見かけたが、いつしか見ることが無くなってしまった。現在の日本では、観光路線でわずかに運行されているのみのようだ。掲句は、あるいは外国詠かもしれない。冒頭に「ガタガタと」とあるから、舗装のされていない田舎道をこのボンネットバスは走っているのであろうか。なつかしい感じのするボンネットバスによる新年初めての旅。先を急がない、のんびりとした旅の様子が想像されてくる。
◇ ◇ ◇