十人十色2024年9月 西村 我尼吾選
空爆の闇流蛍の闇となれ 石井 英子
どの空爆であろうか。ウクライナ、中東、東京大空襲。空爆の後は炎が逆巻き、死の静寂の闇が訪れる。それは悲しみと絶望の闇である。作者はその闇が、蛍が集団となって最後に明滅した後に訪れる闇になってほしいと願っている。愛媛にいたときに蛍の群れの始まりから終わりまでの一部始終を小さな小川で観賞したことがある。それはいわば喜びの歌の後の余韻を引くものであった。絶望ではなく、魂が生き残った者を励ますような、再会と希望の温かみを暗示するものであった。その闇のことを「流蛍の闇」と表現した。有馬先生が最後まで世界平和を望まれたように、作者も平和の訪れを願っているのである。
時宿し川底の石さみだるる 近藤 博美
芭蕉の「五月雨を集めてはやし最上川」。この五月雨は降ったりやんだりする五月雨でありながら最上川の流れを早めるほどになった時間の緊迫感を伴っている。流れゆく川の速さの景に対して、作者は動かない時間そのものを川底の石に見出している。見落としがちな景であるが、川底の石が「時を宿している」と本質直感したのは芭蕉が言うように「もののひかり」が作者に見えた瞬間であったであろう。五月雨であるがゆえにさほど濁っていないという状況説明ではなく、「さみだるる」ということばの裏には、作者のこころの内にも降ったりやんだりするなにかがあったのかもしれない。時間は時には慈悲にあふれ、時には非情にすべてを洗い流す。
幾重にも青葉づくしや力石 河野 伊葉
力石とは石占いという民間信仰に由来するが、江戸時代から村々の神社仏閣などに置かれて、行事や鍛錬のために使われた石である。全国に現存するが、大阪の阪南地域にも、実際に使われていた、加工された大(約一二〇キログラム)と小(約八〇キログラム)と、自然石(約一三〇キログラム)の三つが現存しているとのこと。信仰から競技へ変遷する中で、青葉は成長した若者を象徴するようなみなぎった力を感じさせる季語であるが、大勢の観衆の中に、若い女性もいるであろうが、精悍な若者、壮年男性などが力を競い合う光景は心をときめかせる。そのような連中の総出の姿を「幾重にも青葉づくし」と象徴させた。
素粒子の緑蔭に満つ林住期 田中 梓
古代インドのマヌ法典では人生を
裸婦像のひかりを奪ふ薄暑光 井上 淳子
裸婦像は裸の像であるのでもう脱ぐものはない。それでも素材の美を纏い輝いている。作者は裸婦像の素材がもつ輝きではない、命を持った裸婦像の輝きを見てみたかった。裸婦像を只管写生していると、薄暑の光が裸婦像に射すと裸婦像はその暑さに応えて、ついに素材の光を脱いで裸婦像そのものになったと感じることができた。元の涼しげな素材の光を脱いで暑い夏の「生」の実感が裸婦像から感じられたのである。裸婦像の光を奪い更にもう今一枚脱がせることに成功した。ここに俳諧の面白さがある。
梅雨に入るハブしつとりと森に溶け 谷野 好古
ハブは猛毒を持ち夜行性で草むらなどに潜んでいる。熱に敏感で夜間でも熱を頼りに
夏燕嫁入り船の後を追ふ 池西季詩夫
潮来花嫁さんは船でゆくという花村菊江さんの大ヒット曲「潮来花嫁さん」という歌を小学生の頃に聞いて好きだった。この作品を読んで、さらに浮かんできたのは小柳ルミ子さんの「瀬戸の花嫁」であった。瀬戸の花嫁が島を離れる時に当然船に乗ってゆくわけであるが「幼い弟行くなと泣いた」という歌詞である。他家へ嫁ぐという結婚観は現在ではだいぶ変わってしまった。それでもこの弟が抱いたできれば離れたくないという思いは時代が変わっても変わらないだろう。作品の中の夏燕はその弟が空を飛んで追いかけてきたように思えた。
夏雨や茎と葉編みし細密画 町田 博嗣
私がインドネシアのバリで求めた細密画は縦十一センチ弱横七センチ弱のスケールに真ん中に精霊の王のバロンが描かれ、十人の神具を持った、着飾った若者や指導者が善と悪の戦いを、バリの自然を背景に、暗いトーンながら極彩色で細密に描かれている。このような細密な作業は大変な時間と労力を要すると考えられるが、このような奇蹟を楽々と実現する造化の偉大さを作者は作品に射止めた。それぞれの植物の茎と葉に、設計されたように精密に夏の雨が降りそそぎ、人知を超えた細密画の世界を展開した。それはフラクタルな宇宙に秘められた法理を示す織物のようであると表現した。
麦秋や馬の墓碑銘馬とのみ 松井ゆう子
江戸時代には農家が農作業用に飼育し、大量の馬が飼育された。明治以降は軍用にも改良され、騎馬や兵站物資の輸送に貢献し、人馬一体となって運命を共にし、大切にされた。その意味では最近の競走馬の記名馬碑とは異なる伝統がある。馬魂碑とかいうのではなく馬の碑で調べてみると広島の原爆の熱風をも乗り越えた
フズリナの化石未来も涼しき色 梅田 弘祠
フズリナは秋吉台などの石灰岩に多く含まれる、地質年代を特定できる標準化石と言われるものである。人類の歴史よりもずっと長い一億年もの永きにわたって地球で
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