天為俳句会
  • ホーム
  • 天為俳句会
  • 有馬朗人俳句
  • 天為誌より
  • お知らせ
  • 入会のご案内
 

十人十色2025年9月 西村 我尼吾選

    反芻の七色の順午後の虹      比留間加代

  午後に現れた虹を、心の奥で繰り返し味わうものとして提示している。「反芻」という語は、視覚的に見えた虹が内面で反復され、じっくり熟されることを示す。「七色の順」は変化を特定しないで変化する世界形成の秩序であり、時間の流れに従う生成のリズムでもある。その秩序を内に刻み込み、繰り返し思い返す行為が「反芻」である。午後という穏やかな時刻は、虹の儚さと持続を同時に孕み、一瞬の現象が永遠の記憶へと変わる契機を示す。句全体が目指すのは「自然が自ずと示す秩序」を心で反芻することで、己の内面と外界とが象徴的に一つになる存在の状態、すなわち空海が声字実相義で論じた「瑜伽」の境地になることを示している。

    四筋の李白の詩や田植縄      中島 敏晴

  田の畦に張られた四筋の縄は、苗をまっすぐ植えつけるための秩序を示す。しかしここでの「四筋」は、李白の詩の絶句の四句構成とも呼応する。田植えの場の規律と、漢詩の律動は、ともに「四」によって形を持つ。李白の奔放な詩句も、その背後には四句の定型がある。その定型があるからこそ、自由な飛翔が生まれる。同じように、四筋の縄があるからこそ、農作業はリズムを獲得し、美しさを帯びる。ここで生活と文学は二重写しになり、田に立つ人の姿と詩人の歌声が交差する。句の内面が目指しているのは、「労働と詩が同じ秩序の中で響き合うこと」に他ならない。

    岩陰の御嶽に沿へる泉かな     古波蔵弘子

  泉はただ御嶽の傍に湧いているのではない。神体山の岩陰を縫うように、御嶽に寄り添って流れ出る。泉は人間の設計や意図を超えて、大地の深奥から自然に湧き出る。それが御嶽に「沿う」形をとることは、偶然以上のものである。そこには造化の天意―世界が自らの秩序をもって人に示す意志が感じられる。泉は、救済の象徴である。渇きを癒し、穢れを清め、魂を潤す。御嶽に沿う泉は、聖なる地の加護に寄り添い、そこから流れ出すものとして、人に生きる力を授ける。「沿ふ」という語が強調するのは、人が神に近づこうとするのではなく、自然の側から人間へ差し出される救いの働きである。

    独特の空気のうまし忍冬      猪俣 嘉夕
  「独特の空気のうまし」は、味覚や嗅覚を超えた存在に対する直感を指す。忍すい冬かずらは、その香は甘く濃厚で、人の呼吸に入り込むと深く身体に響く。春や夏の花々の芳香は華やかで多様だが、忍冬の香には「忍び耐えた末に放たれる甘さ」がある。「独特の空気」とは、忍冬が生み出す甘い香気そのものにとどまらず、厳しい自然を生き延びた花が放つ「時間の厚み」と「生の強靭さ」が空気に漂うことを指す。言葉になる前に身体が「うまい」と反応してしまう瞬間を描く。その感覚の背後には、「冬を忍ぶ」という植物の本質的な生のあり方があり、それが空気を通して人間の内奥に触れる。

    日照雨去り青く芳し松蘿      日根 美惠

  日照雨という一瞬のいたずらのような雨が去ると、老いた松に垂れるさるおがせが、急に「青く」なって香る。もともと松蘿は、仙人の鬚とも見なされる古雅で少し滑稽な存在。雨に濡れたその鬚が、まるで新たに染め直したかのように鮮やかに匂い立つ。そこには「古びたものが突如若返る」軽やかな逆転の笑みが含まれている。荘厳な仙境の植物でありながら、ひとたび日照雨に洗われると、しっとりと青い生命を誇るーーその振幅こそ諧謔。深い自然の法理を示しながら、人をふと微笑ませる軽みの瞬間が表現されている。荘厳と諧謔がひとつに同居することで、驚きと微笑みの二重の感情を映した句となった。

    竹林のかすかな葉擦れ半夏雨    古宮 節子

  半夏雨とは梅雨末期、半夏生の頃に降る豪雨であり、田植えを終える区切りを示し、時には災厄をもたらす厳しい雨。基調には重さや哀しみが横たわっている。作者は、芭蕉が示したように、豪雨の中で竹林に耳を澄まし「物に入りて」「微に顕われた」かすかな葉擦れを聞き取る。自然の峻烈さを受けとめつつ、耳を澄ませばそこに優しい囁きもある。この二重性を一句に凝縮することで、作者は「悲しみか楽しみか」という自問自答の段階を超え、両者を同時に生きる人間存在の本質を直感させる作品を描いている。

    眼裏の祖父の日傘や多武峰     藤井  素

  多武とうの峰みねは、大化の改新の密談の政争や祈りの場を背負った談山神社を中心とする聖地であり、重厚な歴史の陰画を湛える。その地において「眼裏」に、不意に浮かぶのが「祖父の日傘」という私的な像である。光なき場所に出現する日傘の逆説こそが句の核心である。日傘は光を隠すものでありながら、その影を浮かび上がらせることで、描かれていない祖父の姿を呼び寄せ、光なき内面に差し込む「記憶の光」を顕現する、個人的記憶が聖地の力に沿って変容し、あたかも喜びの記憶が悲しみと溶け合い、印象派の光と影のように、時空遠近を超えて甦る一瞬の幻像となる。

    夏草を挿す白磁壺理を秘めて    田中  梓

  奔放な生命が夏の陽光を受けて溢れ出す夏草は、自然の奔放なエネルギーを示している。我尼吾は元枢府釉の白磁をこよなく愛するが、白磁は、自然の奔放さをその極限の「形」に収める。夏草の無尽蔵の生を、白磁壺という静謐な器に収める所作は、混沌のエネルギーを秩序へと昇華する象徴的行為。朱子の言う「格物致知」のように、万物に理を探り当てようとするのではなく、自然の事物に宿る理は、人間の眼前に完全に開示されるのではなく、器の内部に沈殿し、秘匿されているという、奥に秘められた理を暗示する作品となっている。

    戸を閉ざす過去世宿坊白菖蒲    河野 伊葉

  「過去世宿坊」という造語的結合。宿坊は宗教的な宿泊空間だが、そこに「過去世」が冠されることで、前生の自己や因縁を宿し続ける精神的庵へと変容する。「戸を閉ざす」とき、過去世は現世に流れ出すことなく、静かに内部に沈殿する。それは、過去世を封印しながら、それを穢れから守り、清浄な場にとどめる行為。白菖蒲は清浄、鎮魂、祓いを象徴する花であり、魂を浄める色彩を持つ。その白はすべてを受け容れ守る「無垢」である。閉ざすことは終わりではなく、むしろ救済の始まり。つまり白菖蒲は閉ざす行為そのものの象徴であり、拒絶ではなく護りの象徴である。

    夏の海熟して速し落暉かな     西崎くみ子

  夏の海は、最も充実した力を湛える季節の象徴。夏の海が果実が熟すように、自然の充実が加速度的に消尽へと転じる瞬間を捕らえた。沈む夕日の輝きは、成熟の美の極点でありながら、消滅の予兆でもある。夏の海の広がりと落暉の速さが呼応し、自然は「盛りと衰えを同時に抱える存在」であることが示される。盛者必衰の東洋的「無常」の思想が響いているが、豊穣の頂点は終焉の始まりに他ならず、ギリシア的な「運命の美」やラテン的な今をこそ楽しめという「カルペ・ディエム」にも通じる。最も美しいかたちで滅びへと引き渡される刹那であり、そこに「美の完成と終焉の同一性」が示される。

         ◇     ◇     ◇


Copyright@2013 天為俳句会 All Right Reserved