天為俳句会
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十人十色2025年12月 日原 傳選

かなかなの語尾山裾へ落ちゆけり      橋本  綾  

 蜩は明け方や夕方によく鳴く。かなかな、かなかなと繰り返すその鳴き声を山荘などで聞いているのであろう。かなかなの一匹ごとの鳴き声は、耳をかたむけていると、次第に弱くなり、やがて消えてしまうが、間を置いて再び強く鳴き始める。その繰り返し。掲句は弱まってゆく鳴き声を「かなかなの語尾」と捉えたところがユニーク。また、その弱まり消えてゆく鳴き声を「山裾へ落ちゆけり」と言い留めたところも面白い。山の高所から下の谷が臨めるような場所に作者は身を置いているのであろう。作者と場所を共有して、かなかなの鳴き声を聞いているような気分に読み手も導かれる。

テロメアの長さ競うて菊の綿        森  幸子    

  「菊の綿」は晩秋の季語。「菊の着きせ綿わた」「菊の染そめ綿わた」ともいう。陰暦九月九日の重陽の節句関連の行事の一つ。九月八日の夜、菊の花に真綿をかぶせてその香りと露を移し、九日にその綿を取って身をぬぐうと、老いを去り命が延びるとされた。『紫式部日記』にも見える古い慣習。一茶『八番日記』に「綿きせて十程若し菊の花」の句がある。一方、「テロメア」は染色体の末端にある構造で、染色体の末端を保護する役目を持つという。そのテロメアなるものはテロメラーゼという酵素によって伸張が行なわれると考えられており、細胞の老化の抑制や癌治療への応用が見込まれ、研究されている由。「延命」に関する新旧の話柄を一句のなかで取り合わせた斬新な作である。  

月の終はるあかとき風は秋         松尾 久子    

 日本では今年の九月八日に皆既月が見られた。月が欠け始めたのは午前一時二十六分ごろ、皆既月になったのは二時半で、三時五十三分まで皆既月は続いた。月が終わったのは四時五十六分。まさに明け方近くであった。上五中七はそれを述べている。掲句は下五の「風は秋」という措辞が働いている。作者は欠けていた月が再び赤銅色の丸い姿となる明け方まで月を見続けていたのであろう。そして、皆既月を見終えたあかときの風に秋を感じたというのである。吹く風に秋を感ずるというのは、昔からよく詩歌に詠まれたテーマだが、月を見終えたあとの風に秋を感じたという展開には新しみがある。   

胞え衣な壺つぼも出土品なり露けしや        進藤 利文  

 「胞衣」は胎児が生まれた後に排出される胎盤。生まれた子のすこやかな成長を祈り、その胞衣を壺や桶に納めて土中に埋める習俗があった。古くは縄文時代中期にさかのぼるという。産後五日あるいは七日にそれを吉方の土中に埋める「胞衣納め」という儀式も知られている。作者のお住まいの秋田の秋田城跡からも胞衣壺は出土しているので、それをご覧になっての作であろうか。「露」は草木や地面に結ぶので、「露けし」という季語は掲句の内容にふさわしい季語であり、句全体に統一感がある。  

戦場ヶ原色なき風の五六人         齋藤みつ子  

「戦場ヶ原」は中禅寺湖の北、奥日光にある乾燥湿原。木道の整備された湿原のまわりを白樺、水などの樹林が囲んでいる。地名の由来は、男体山の大蛇と赤城山の大百足むかでがこの地で死闘を繰り返したという伝説にもとづく。その戦場ヶ原も秋を迎え、秋風が吹いている。木道を行くのであろうか、その風に吹かれつつ数人のハイカーが歩いているのである。「色なき風」という措辞を使ったことで、湿原に生える草花の色、それを取り囲む樹木の色、その背後に立つ山の色などに思いが及ぶ。「色なき風」という季語が一句のなかでうまく収まっている。  

教会の日陰雀と涼みけり          向田  敏  

 夏の炎暑下、日陰を見つけるとほっとする。大きな樹木の下にできる木陰は風も通って望ましいが、ビルの陰などであっても有り難い。作者はたまたま教会の日陰を見つけて、そこで一時涼んだのであろう。そして、涼みながら周囲を見ると雀もそこで涼んでいたというのである。暑に耐えると言う点で、人と雀の間に仲間意識が生まれているようでほほえましい。教会には三角屋根や尖塔を持つものもあって、その陰は面白い形をしているのかもしれない。読み手の想像を誘う句である。

鶏頭の種をこぼしつ供花とす        田中  梓    

「供花」はふつう「くげ」と読むが、「くうげ」という読みもある。この句の場合は「くうげ」と三音で読むのであろう。亡くなった人に供える花として鶏頭を選んだ。生前に鶏頭を好んだ人なのであろうか。鶏頭の種は非常に細かい。その細かな種がこぼれていることに花を捧げながらふと気付いたのである。供花とした鶏頭のこぼれる種に焦点を当てたところで、臨場感と哀感の備わった句となった。  

取説に萎む眼や秋ともし          大谷 忠美  

「取説」は取扱説明書の略。機器や用具などの使い方を説明した文章や冊子を言う。掲句を一読して、電化製品などを購入して、その取扱説明書を読み解くのに難儀している作者の姿を想像した。説明が細かすぎるのであろうか。新しい用語が分からないのであろうか。そもそも説明の文字が小さくて読みづらいのが一番の問題なのかもしれない。「萎しぼむ眼や」という詠嘆に実感が籠もる。「秋ともし」という季語が背景として追い打ちをかけるように働いている。

九月来る耳朶に風吹く跨線橋        町田 博嗣 

 鉄道の線路を越えるべく架けられた跨線橋。線路が何本も敷かれている所では、その分長い跨線橋が架けられている。それを渡ってゆく。跨線橋の上で立ち止まって下を眺めているのかも知れない。吹いてくる風を耳朶で感じているという感覚がユニークである。近年は九月になっても暑気の去らない日々が続くが、作者は跨線橋の上で出会った風に季節の移りかわりを感じたのであろう。冒頭に置かれた「九月来る」という季語で作者の実感を提示し、中七下五でその由来を説明するかたちの句として解釈した。

保己一の茅葺旧居秋桜           野中 一宇  

 塙保己一(一七四六~一八二一)は江戸時代後期の国学者。 武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)の農家荻野宇兵衛の長男として生まれる。七歳の時に失明。十五歳の時に江戸に出、検校雨富須賀一の門に入り、音曲・鍼医術を学ぶが、関心は国史・古典に向かう。十六歳で歌学者萩原宗固に入門、その後、川島貴たか林しげに垂加神道を、山岡浚まつ明あきらに故実学を学び、二十四歳で賀茂真淵の門に入っている。盲目の国学者として多くの業績を挙げているが、最大のものは『群書類従』六百七十冊の刊行とされる。足かけ四十一年を要し、文政二年(一八一九)に完了した畢生の大事業であった。作者は保己一の生家を訪れたのであろう。茅葺きの入母屋造りの家で国指定文化財になっている。保己一の父宇兵衛の代に建てられた家のようである。なお、「秋桜(コスモス)」の原産地はメキシコ。日本には幕末に渡来したようだが、本格的に広がったのは明治になってからのことらしい。保己一の亡くなってからの歳月を感じさせる。  

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